自伝完成

気付けばもう41歳。男性の平均寿命を考えれば、人生折り返しを過ぎたところ。

段々と小さな頃の記憶も薄れていく。完全に忘れ切らないうちに残っている記憶をここに記していきたいと思う。

  • 幼少期~小学期

 小さな頃は目がパッチリしたとても可愛い男の子だった。今となっては自分でも信じられないが、幼少期の写真を見ると、確かに可愛かった。

 小さな頃から同級生の中では身長が高いにも関わらず、運動神経は人一倍悪かった。学校の体育で目立った記憶は全くない。母は物心つく前からそんな息子に水泳を習わせていたが、大体後から入ってきた同級生に追い抜かれていく。

 小学校に入ると、母はそんな息子に色々な習い事をさせる様になる。あとあと聞くと、それは自分が言い出した事だと言うが、当人は全く記憶がない。水泳以外にもミニバス・テニス・器械体操・更には祖父が歌の先生だったこともあってか、ピアノも習うようになる。

 学校の休み期間には通っていた水泳教室で開かれていたスキー教室や海洋実習・キャンプなどにも参加し、小さい頃は家でダラダラ過ごすといった事はほとんどなかった気がする。

 今、思うと一人っ子だった事もあるが、かなり裕福な暮らしをしていた様に思う。当時流行っていたテレビゲームは他の同級生と比べて沢山持っていたし、年末になると近所に住んでいた祖父母と毎年のように海外旅行に行っていた。

 どんな習い事を始めても、周りがどんどん自分を追い越していくにも関わらず、どういう心持ちだったのかはわからないが、どこに行ってもすぐに友達が出来た。習い事の最中にコンプレックスを感じる事は多分にあったが、それが終わると皆で遊びに行ったり、ご飯食べに行ったり、結構楽しくはやっていたと思う。

 小学校でも比較的人気者の部類にはいたのかなと思う。学校が終わると、習い事がなければ必ずどこかで誰かと遊んでいた。これは母が小さい頃から色々な課外活動に行かせた事で大きく影響していたのだろう。

 ただ、小学校に入ったころくらいから、段々とぽっちゃり体形となり、2年生くらいからは眼鏡を掛け始め、昔のパッチリした可愛い男の子の印象は段々と失われていく。

 小学校時代、運動以外にもコンプレックスだった事がもう一つある。図画工作の時間だ。

本当に芸術的センスは皆無だった。人一倍完成も遅い上に、出来上がった作品は幼稚園の頃から中学校卒業まで進歩がほとんど見られなかった。もし過去の作品を年齢順に並べろと言われても絶対にわからないと思う。

 そんな小学校生活で今後の人生を変える大きな転機となったのは小学校4年生のとき。

通っていたスイミングスクールの級を人一倍時間をかけて全て取り終えた時のこと。

そこのスイミングスクールでは全ての級を取り終えると、週6回の選手コースに行くのが既定路線となっていた。これまで週1でやっていた自分にとって、そこに行くのは絶対に嫌だった。別に水泳が好きなわけでもなかったし、ここまで人一倍時間がかかったことも誰よりも知っていた。

 本当は辞めたかったのだが、母親は辞めることを許さなかった。どうにか逃げ道を探していたのだが、そこで見つけたのが同じスイミングスクールで行われていた水球だった。

水球は毎週日曜日夕方だけ。プールのコースロープを全て外して、プールの両サイドにパイプで組み立てたゴールを浮かべ、そこにボールを投げ込む。

 水球はその時間しか行われていなかった為、年齢層も幅広かった。下は小学校低学年から上は高校生くらいまで男女問わずいたような記憶がある。初めて見学に行ったときはゲーム中に誰かがコンタクトを落として、ゲーム中断して25mプールを網みたいのを使ってひたすら探していた。

 この見学を経て、ここから水球を始めることになる。これが小学校4年生の秋だった。

この水球との出会いが良くも悪くも今後の人生を大きく変えていくことになる。

 ここを境に休み期間中は常に合宿が組まれるようになり、それまでに行っていた海洋実習やスキー教室の類には行く事が出来なくなった。

 当時はスパルタ教育の全盛期。週1回とは言え練習はどんどんとハードになっていった。

プールで練習するのは17時から20時くらいだったが、15時くらいには集合し、1時間半陸上トレーニングを目いっぱいやって、17時から1時間くらいはとにかく泳ぐ。18時を過ぎた辺りでようやくコースロープを外し、ボールを使った練習をする。

 小学校5年生からは夏と春に行われるジュニアオリンピックのメンバーとなり、更に練習はハードになる。合宿は本当に地獄。午前は9時から12時。とにかく泳ぐ。時には潜水で25mを何本も行う。午後はボールを使った練習を14時くらいから18時くらいまで。

練習が終わると、宿舎に戻って、死ぬほど飯を食わされる。こんなのが6日間続く。夏休みは始まってすぐに合宿、そのあと予選があって、通過したらまたしばらくして合宿、そして本戦。5年生になってからは学校のない期間はほとんど水球に忙殺され、友達と遊びに行く事も少なくなった。

 当然、他の習い事は自動的に辞める事になる。唯一ピアノだけが残っていたが、当然練習する時間もなく、毎週先生と他愛もない話をして、怒られて帰った記憶だけがある。

 水球はマイナースポーツな事もあり、全国大会出場のハードルは決して高くなかった。

でも運動神経の悪い自分がそういう大会に出れることで、少なからずの自信になっていたことは確かだと思う。初めて参加した小学校5年生夏のジュニアオリンピックでは補欠だったけど、全国4位という結果だった。

 こうなってくると段々欲が出てくる。全国のメダルが欲しい。目立ちたい。

しかし、ここで根本的な問題が出てくる。圧倒的な運動神経の悪さとさらに圧倒的な気の弱さだ。

 マイナーとは言え、全国上位の結果を残すチームのメンバーはやはり運動能力が高い人が多い上に、いわゆるヤンチャ系の人たちが多かった。実力もヤンチャ度も歯が立たない自分はここから所々でイジメを受けるようになる。

 主犯となっていたのは1つ上だが、自分より半年後に入ってきてすぐにレギュラーになったS。事あるごとに周りを巻き込んで仲間外れにされたり、馬鹿にされ続けた。ゲームを取られたりもした。もう細かな記憶はないが、よくその後も続けていたなと改めて思う。

 そんなこんなあったが、小6の夏にレギュラーとして全国大会に出場。ただ1回戦で敗退。春は全国大会にすら出れず、このまま中学でも続けていく決断をする。

 一方、学校生活は比較的順調。全くと言っていいほどモテるタイプではなかったし、割とクラスの中に数人いるヤンチャ系に叩かれたり、蹴られたりはあったものの、友達関係には恵まれ、楽しい学校生活だった。

 何の取り柄もなかった小学校生活だが、唯一の勲章は小学校の卒業文集に書かれた「クラスで1番面白い人」で1位に選ばれたことだ。それまで何一つ1番を取ったことがなかったので、これは地味に本当に嬉しかった。

 もう一つ、記憶に残っているのは初恋のこと。

 同級生と比べて、女子を異性として興味を持つようになったのは、圧倒的に遅かった。

実際、この時もやらしい気持ちは全く持っていなかった思う。だからこそすごいピュアな記憶として思い出に残っている。

 相手は同じ水球のクラブチームに所属していた3歳上のお姉さんだった。小柄で色白で泳ぐのは早かったが、水球というスポーツには全くと言っていいほどそぐわない物静かで穏やかな人だった。3歳離れていたし、口数の多い人ではなかったのと、元々自分を苛めていたSの知り合いで入った人だったので、話したことなんて数えるくらいしかなかった。

 その人は中学で水球を辞めたのだが、彼女は高校、僕は中学を間近に控えた春休み最後の大会からの帰り道、駅から一人で帰ろうと思ったら、後ろから声をかけてくれた。薄紫のダッフルコートが色白で小柄なその人にすごく似合っていて可愛いなと小学生ながらに思っていた。彼女は食べかけのアイスを食べると言って一口僕にくれ、家の方向が同じだったこともあって、帰り道の10分くらいを一緒に並んで帰った。

 どんな話をしたかは覚えていないが、その人はもうクラブチームを卒業するので、これでもう会えなくなるのかなと、この帰り道がもっと続けばと思った記憶が鮮明に残っている。

自分の家の方が手前だったのだが、別れ際が本当に寂しくて、別れた後も自分のマンションの廊下からその人が帰っているである方向を見ながら物思いにふけっていた。

 こうした初恋も経て、地元の中学校へ進学をする。その後もどこかで偶然会ったりしないかなと淡い期待をしたけど、その後は全く会う事はなかった。

 

(2)中学期

中学に進学しても、ごく1部の友達が私立へ行ったことと近所にもう1つあった小学校と一緒になったことだけで、仲の良い友達が残っていたこともあり、1年時は順調な生活を送っていた。部活は水球との両立もあったので、水泳部に入った。自分が1年生の時は2年生に近隣のスイミングスクールで本気でやっているような人も多かったが、3年生はそういった人もおらず、かなり和気あいあいとしていた様に思う。

先輩からも結構可愛がってもらって、何か嫌な想いをした記憶はほとんどない。何より水球の練習と比べると、圧倒的に練習は楽だった。

中学に入ってくると、これまでの水球の練習の成果もあってか、体育の時間にそれほどコンプレックスを感じることは少なくなった。特に長距離走に関してはクラスでも1番・2番を争うほどになった。

中学に入っても引き続きコンプレックスになったのは美術の授業。小学校低学年から成長を見せない芸術センスで普段はからかってくれる友達もこの時間だけは何も触れてくれなかった。そんな自分を見かねて、美術の先生は積極的に自分の作品を手伝ってくれて、最終的には自分の作品とは思えない出来になったものもあった。

そして中1の終わり頃から更にコンプレックスとなったのは、体毛の毛深さだ。

小学校の頃は全くと言っていいほど生えていなかった体毛が、中1の終わり頃から尋常ではない成長を見せ始めた。これがその後のコンプレックスとなって続いていく。

この中1の最大の思い出は、クラスの何かのアンケートで行われた「クラスで1番面白い人」で1位になったことだ。実質2連覇。ただ残念なのはこれでも全くと言っていいほどモテなかった。

そしてより一層ハードになったのは、水球の練習だ。本気で全国優勝を目指すチームになった。中学に入って日曜だけでなく、土曜日も1時間ひたすら泳ぐ練習が加わった。中学に入り、しごきは更に厳しくなった。そして大きく変わったのは、中学に入って監督からゴールキーパーに指名をされたことだ。泳ぎやボールを扱う練習に加えて、足をつかずに体を浮かす通称飛びつきの練習が加わった。この練習はやがて腰に2キロの重りを付けて、時にはTシャツを着たまま飛び続けた。合宿はそれまで夏に2回、春に1回だったのに加えて、冬にも1回追加、GWには遠征も加わり、長期休みはほとんど水球漬けとなった。冬は仙台の大学プールで室内だったものの空気が凍えるほど冷たい朝から練習を行った。クリスマスイブの夜に雪が降り始め、翌朝クリスマスに雪が積もっていたのが思い出される。

当時の主力が中2だったこともあり、今年と来年が全国でも上位を狙えるチャンスだった。そして迎えた中1の夏。自身はキーパーのレギュラーとして試合に挑んだ。予選は負けた試合もあったが、まずは順調に全国大会の切符を獲得。そして岡山で迎えた全国大会。2回戦で当時3年生が主力として全盛期を迎えていた京都のチームに全く歯が立たず敗退する。

そして春も全国大会の切符を手にするが、ベスト4まであと一歩の所で青森のチームに1点差で敗退する。

目標のメダルになかなか手が届かない。でもそれがこの地獄のような練習の中でモチベーションとなって最後まで続いたことは事実だ。主力が3年生になり、最後のチャンス。

まだ頑張ろうと思った。

そうして迎えた中学2年。部活でも徐々に結果が見え始めた。当時水泳を習っている人は1種目しか出れない市内大会に水球は該当しなかった為、100m自由形と100m平泳ぎで2種目出場したが、どちらも上位8名に残り、決勝進出。平泳ぎでは2位となった。

もちろんそんなにすごい事ではないのだが、部活の先輩や同級生はメチャクチャ喜んでくれた。戦前の予想では全然上位に食い込むと思われていなかったし、何より中1の時からタイムがすごく伸びていたからだ。何か周りが喜んでくれることがすごく嬉しかった。

ただ、この辺りから学校生活に少しずつ陰りが見え始める。中2くらいになってきて、段々とヤンチャな人たちが勢力を拡大し始めた。先生たちに反発する人が増え、学校をサボったり、軽口を叩いたりする人がどんどんと多くなっていった。自分はどちらかと言うと、先生に言われた事を一生懸命やって、内申点を上げていくタイプだった。段々とクラスでの存在感が薄れていき、ヤンチャな人たちの前で自己表現をするのが辛くなってくる。

それでも友達は一定数いたとは思うが、自分のことを嫌う人も一定数いたように思う。

 余談になるが、初めて女の子の家に行ったのがこの年。相手はクラスメイトで席が近かったことがきっかけで仲良くなり家に招待された。

 彼女は寺の娘でメチャクチャ広い敷地で広い家に住んでいた。初めて女の子に部屋に入ってすごくドキドキした記憶は残っているが、その後何か生まれる事はなかった。

話は戻り、勝負の年となった水球生活。本来は優勝を目指し、勝負の年となる1年となるはずだったが、ここでも大きな問題が起こる。メンバーが揃わない。

水球は7人で行うスポーツだが、ベンチ入りメンバーを入れると13名登録となっていた。しかし、この年集まったメンバーはレギュラーギリギリの7名のみ。しかもそのうち1名は小学生の登録となった。

予兆はあった。

所属していたチームは全国数か所に水球教室を展開していて、そこで希望した人が合宿に参加し、そこからメンバーを選抜していくのだが、そもそもこの教室自体がどんどんと縮小している上に、合宿に参加しても、練習や環境に耐えきれず辞めてしまう人が続出していた。1年上のSは自分以外にも気に入らないやつがいれば苛めていたし、残っているメンバーは自分と小学生を覗けば、全国でも上位クラスだったので、なかなか新しい人が馴染める環境ではなかったのだろう。

 そして更に事件は起こる。

 夏の全国大会予選。試合は何とか辛勝したのだが、内容に納得いかなかった監督が保護者や応援の人たちがいる前で全員に平手打ちをした。何故か自分だけ食らわなかったのだが、この平手打ちを食らったメンバーの一人の鼓膜が破けてしまったのだ。

 これが保護者の猛反発を食らい、その監督は全国大会を直前にして解任されることになる。

 そうして小学校時代にコーチをやっていた人が急遽監督になり、直前の合宿を経て全国大会に出場。初戦・2回戦と順調に勝ち進んだ末の準々決勝。試合終盤まで0対0の同点。しかし、終盤でメンバーの一人があと1回反則したら退場という状況になってしまい、苦肉の策でキーパーだった自分とポジション変更。結局ここが穴となってしまい、決勝点を奪われ、水球では珍しい1対0での敗戦となった。水球はサッカーと違って退場=1人少ない状況で戦う、訳ではないので、改めてメンバーが入ればと思わされる試合となってしまった。

 そしてその後も事件は続く。

 最後の勝負と思って臨むはずだった春の大会。まさかのチーム登録の際に不手際があったという事で出場すら叶わなかった。

 結局メダルには手が届かないまま、主力のメンバーが抜けていった。

 中学3年になり、部活では部長、水球では副キャプテンになった。

学校生活はクラス替えもあり前半は順調。休みに男女交えて海に行ったりもした。が、この頃はそれまでヤンチャだった人のヤンチャ具合がさらに加速。クラスはその人たちが盛り上げ役となり、存在感はより薄れていった。部活でも水球が忙しく、練習にあまり出れなくなったことで、求心力は著しく低下していった。

 クラスで最も敬遠されるきっかけとなったのが、おそらく秋ぐらいだったと思うが、クラス内でボイコット騒ぎが起こった。担任の先生に一部生徒が反発した事がはじまりだったと思うが、その際に先生と話をしたりして、何とか仲介を図ろうと思ったことが、先生の見方をしたように捉えられたようで、そこから一部の同級生からほとんど話しかけてもらえなくなった。

 そこで孤独感を感じずに済んだのは、一定数の友達の存在だ。一定数の人からは嫌われてしまったが、元々仲良かった男子の同級生は変わらずに自分を慕ってくれた。

 部活では市内大会・県央大会で優勝。県大会では全く歯が立たなかったが、いい形で締めくくる事は出来た。

 そして水球に話を戻すと、前回大会のチームの不備の責任を負って、また監督が解任となり、また元の監督に戻ることになった。

 前回メンバーは7名のうち、4名が卒業、小学生は辞めてしまい、自分と当時全国級で各高校から注目を集めていた同級生のキャプテンの2人だけとなった。監督は各所からメンバーを寄せ集めて何とか人数だけは確保した。

 メンバー上、自分はキーパーからフィールドプレーヤーにへ変更となった。そしてここからまた練習は厳しさを増し、それでも何とか耐え抜いて、夏の全国大会予選に出場したが、いくらハードルが低いとは言え、これほどの寄せ集めではさすがに勝負にはならず、予選で敗退することになった。

 この夏で今後の人生を変える最大の分岐点となったのは、この予選を通じて自分の実力を過信してしまったことだ。寄せ集め集団だった為に、相手チームはキャプテンと自分の2人だけ抑えれば勝てると吹聴していたのを聞いてしまったことだ。

 本当は中学で水球は辞めようと思っていた。所属しているクラブチームは中学までしかなく、高校で続けるには、水球部のある高校に入学しなければならない。ただ当時はいわゆる普通の高校生活を送りたいと思っていた。髪を染めたり、何か音楽を始めたり当時今時と呼ばれるような事がしたかった。

また、当時は進学の際に内申点が重要視されており、勉強は中の上くらいだったが、先にも記した通り、先生からの評価は高かったため、近所の進学校への進学も期待できたし、自分の仲良かった友達の多くがこの学校を志望していた。

 それがこの夏の安易な過信が、自分に違う選択肢を考えさせることになる。

 そこから水球部のある高校を探し始める。

 想像がつくとは思うが、水球部のある高校は少ない。自分が住んでいた神奈川では3校しかなかった。そして3つとも推薦入学等の制度はなく、入学は不可能だった。

 そしてこの件に関して、監督に相談をした所、いくつか水球のある高校を紹介してくれた。どれも推薦入学させてもらえるという事だったが、山形・群馬・千葉・そして埼玉の高校で、どれも環境的には厳しいものだった。

 改めて両親とも相談し、水球は中学で辞めて近所の進学校を目指そうという結論になった。だから最後となる春の大会に全力を注ごうと考えていた。

 こうして出した結論を、監督に伝えたら、監督は大激怒した。ここまで口利きしてやったのに、それを断るなんて理解できない。もし紹介した高校に行かないなら、お前は春の大会には出さないと言われた。

この監督に激怒と最後の大会に出さないと言われた事でひどく落ち込み、そして号泣した。ここまで頑張ってきたのに、最後は試合にも出れずに終わるのかと。

この件はウチの両親も交えて、大激論になった。その激論の結果、気の弱い自分は最終的には監督の圧に押され、水球強豪校である埼玉の高校への進学を決めることとなる。

 この高校には同じチームに所属していた1つ上の先輩が入学をしていた。また自分が進学を決めて数日経ってから、チームメイトのキャプテンも同じ高校への進学を決めた。

 今さらながら考えてみると、監督は高校側から紹介料でも貰っていたんじゃないかと思っている。たかがクラブチームの監督で教え子が水球を続けるか続けないかであんなに激怒出来るものだろうかと。もっと言うと、自分よりはるかに多くの高校から勧誘されていたキャプテンも水球を中学で辞めようとしていたから、自分を行かせる事でキャプテンも行かせようとしていたのではないかと。今となっては確認できないが、もしそうだとしたら、本当に監督の思うように事が進んで、さぞ嬉しかっただろう。

 ここまでして最後の春の大会には出場したが、あと一歩の所で敗退。目標にしてきた全国大会でのメダル獲得を手にする事は出来なかった。

 こうして中学を卒業。仲の良かった友達と別れ、埼玉での寮生活が始まった。

 (3)高校期

入学した高校は普通科だけで1学年16クラス、その他に保健体育科、自動車科、情報科学科まであり、同級生が600人以上いるいわゆるマンモス校だった。部活がとにかく盛んで、中学時にスポーツで実績を残した人が県の枠を超えて沢山入学していた。自分も監督の計らいもあり、スポーツ特待生として、入学金・学費免除で入学となった。

とにかく規則が今ではもちろん、当時でも考えられないくらい厳しい学校だった。

頻繁に頭髪検査が行われ、前髪が眉にかかったらアウト、女子はスカートが膝までなければアウト。

学校に携帯電話を持ってくるのはアウト、更には男女交際アウト。交際だけでなく異性とのカラオケの利用もアウト。確かな情報ではないが、屋上でキスをしていたカップルが退学になったという都市伝説のような噂も出回っていたが、おそらく事実である。

更に厳しかったのが、寮での生活だ。越境入学している生徒も多かった為、各部で寮が用意されていたが、自分がいた寮は野球部の監督が寮長をしている野球部メインで使われている寮だった。そこで水球部の先輩2人と同部屋となり、生活をしていくことになる。

先輩との生活は、よく昔のアスリートがテレビで語るようなしごきのようなものは一切なかった。ただし、本当に無関心で、迷惑さえかけなければ特に咎められるようなことはなかったが、それはそれで気は使う。部屋にはテレビが1台あり、ゲーム機なども置いてあったが、当然自分が使うことはなく、気が付けば部屋では勉強ばかりするようになった。

朝と夜決まった時間に点呼があり、寮生全員が部屋から出て確認をする。お風呂は大浴場があり、決められた時間の間で済ませる。トイレも共有。大便器の背もたれの蓋の裏には漏れなく誰かが置いたと思われるエロ本があり、トイレ内は異臭を放っていた。

食事は食堂があり、朝はパンとジュースが1人2個程度分置いてあるが、速く行かないとすぐなくなる。夜はバイキング形式の食事が置いてあったと記憶している。

先にも言った通り野球部メインの寮だった為、とにかく野球部の権限が強かった。水球部以外にも何人かは別の部に所属している寮生もいたが、この年野球部が甲子園初出場を果たし、甲子園バブルが弾けていた。男女交際禁止だったにも関わらず、野球部だけは見て見ぬふりをしているようにも見えた。

寮内は携帯電話の持ち込み禁止で、寮に1台だけある公衆電話は日々取り合いとなっていた。当然長電話が出来る訳でもなく、多くの寮生はこっそりと携帯電話を持っていた。

そんな窮屈な生活の中で、結局入学半年で携帯電話の使用・門限時間オーバー・自転車のライト不使用で3回もの反省文を書かされることになる。

そんな中での学校生活だったが、クラスでの生活は順調。比較的早く友達も出来て、それなりに楽しく過ごしていた。また寮での勉強の甲斐もあって、テストでは学年でもトップクラスとなっていた。これが数年後に大きな勘違いを起こすことにはなるが。

そしてメインとなる部活動。ここが本当に苦しかった。

再びゴールキーパーに戻り、日々の練習を行っていくが、とにかくこれまでとレベルが違い過ぎて全くシュートを止める事が出来ない。部員は大半が中学からの経験者で関東の強豪チームから来た人が多くを占めていた。特に1学年上の代は後に全国の3大大会でもあるインターハイ・国体・ジュニアオリンピックと3冠を達成するようなメンバーだった。

練習ではとにかくシュートを決められ続けた。中学時代の過信を後悔するほどにボコボコにやられ続けていた。練習は一生懸命頑張っていたが、根本的な運動能力の違いを感じていた。そんな中で中学時代のチームメイトである同級生は1年生から国体のメンバーにも選ばれ、どんどんと躍進を遂げていった。

自分が1年生の時は、チームはインターハイ・国体と出場を果たしたが、インターハイはベスト8で敗退、国体は3位という結果となった。

高校1年生の時、小さな転機があった。この年年末年始にアメリカ遠征があり、控えゴールキーパーとして遠征に参加することになったのだが、正ゴールキーパーのパフォーマンスが今一つで、途中から試合に出るようになり、試合に勝利。それまで距離のあった先輩と少し近づけたと思えた瞬間だった。

その後、レギュラーを奪うことは出来なかったが、これがきっかけとなって、その後の練習にも前向きに取り組めるようになった。頑張れば自分にもチャンスがあると。

もうすぐ2年生を迎えようとしていた高校1年生の終わりごろ、大きな事件が起こる。

ある日、練習前に先輩に個別で呼び出された。呼び出され更衣室に連れていかれると、そこでその先輩から殴る・蹴るの暴行を受けた。

暴行を受けた理由は、その前日に同級生のチームメイトと帰っている時、次の大会で先輩たちが負ければいいといった趣旨の内容を、前を歩いていた先輩の友人が聞いてしまったことだった。先輩たちが怒るのは当然だと思った。

今振り返って考えて見ても、おそらく言い出したのは自分ではないという自信はある。ただ、チームメイトがその類の話をした時に否定をせずに同調していたのは間違いないと思う。あとはなぜ自分だけが暴行を受けたのか理由はわからなかった。

これをきっかけに寮生だった自分の居場所はより窮屈なものとなった。当時、寮には1つ上の先輩が5名いたが、1人ずつ謝罪をしにいった。反応はまちまちだった。

全く話を聞き入れてもらえない先輩、我関せずの先輩、色々と諭してくれる先輩。とりあえず気持ちは伝わったとは思うが、その後の関係に大きな亀裂が生まれてしまった。

このタイミングで体調が著しく悪くなる。熱が40度近くまで上がり、身体中に疱疹が出て身動きが取れなくなった。後日病院に行き、診断結果は感染性単核球症と診断され、そのまま1週間程度の入院を余儀なくされた。

体調が回復し、久しぶりに部活に戻ってみると、先輩たちが普通に接してくれた。もちろん謝罪はしたのだが、あとあと聞いてみると、大会にメンバー入りしていた唯一の同級生が色々便宜を図ってくれたようだった。

先輩との関係は遠征後ほど元通りにはならなかったが、それでも普通のコミュニケーションは取れるようになった。が、2年生に上がるタイミングで寮を辞めて自宅から通う事にした。

 自宅から学校までは乗換は1回だが2時間以上かかる。練習が終わって家に帰ると23時近くなり、朝連のある日は5時20分ごろの始発で家を出る。自分も大変だとは思っていたが、改めて母が一番大変だったと思う。朝4時半に起こして、おにぎりを持たせて、夜は駅に着くタイミングで車に迎えに来てくれる。こんな生活を2年弱やってもらっていたのだから、本当に苦労かけたと思う。

 こうして迎えた2年生。学校生活でも大きな変化があった。1年時にテストで学年でもトップ争いを繰り広げた結果、先生から普通科で1クラスだけある特別選抜クラスへの誘いを頂き、2年時からクラスを変更することになった。

 クラスを変わった事で授業数が増えるとかはなかったが、授業内容は格段に難しくなった。そしてこの時はじめて自分が賢いわけではないことに気付いた。更には退寮したことで勉強する時間も意欲も圧倒的に少なくなり、授業中に眠りにつく事も増え、成績も順調に下がっていった。

 とは言え、新しいクラスに馴染むのにはそれほど多くの時間はかからなかった。クラスは大きく分けると2パターンの人間が存在していて、片方はどちらかと言うと典型的な文化系タイプ。華やかなことには興味がなく、生活の中心のベースは勉強で、女子と話すことに抵抗感を覚えている感じ。もう片方はどちらかと言うと体育会系で、性格はそれぞれあるが勉強よりも音楽とかオシャレとかに興味を持っていて、クラスの中でも割と目立っていて誰とでも気兼ねなく話が出来る感じ。

 初めは文化系タイプの人と仲良くなっていたが、秋くらいになってくるとそのグループから離れ、割とクラスの中でも目立つ人たちと仲良くなっていった。

 1年時もそうだったが、クラスの生徒の男女比率は8:2で男子が30名弱いるのに対し、女子は7,8名しかいなかった。そしてあまり男女間で仲良く話している風景はこのクラスでは一部の部活動が同じ人を除けばほとんど皆無だった。

 そんな中でクラスの女子と一番気兼ねなく話をしていたのは自分だったと思う。そして、この狭い世界の中で自分が一番女子と話している事にしょうもない優越感を覚えた記憶が残っている。

 まぁ成績はともかく、クラスでの生活は総じて順調。その一方で部活はと言うと・・・

 2年時になり、超高校級の先輩たちと行う練習は肉体的と言うより、精神的にハードだった。ゴールキーパーだったので泳ぐ練習はそれほど多くなく、重りを持ってひたすら浮く練習や飛びつきなどが多かった記憶がある。一番きつかったのは練習の最後に必ず行われるレギュラーメンバ―のAチーム対補欠のBチームのゲーム形式の練習だった。この当時、どちらのチームも3年生が大半を占めていて、ここに入っている2年生は、1年時からメンバーに入っている中学時代からのチームメイトと自分だけだった。

 もう一人が実力でメンバーに入っていたのに対して、自分の場合は完全に消去法だった。

当時、ゴールキーパーは各学年に1人しかおらず、ゲームをする上で仕方なく組み込まれていた。

 全く実力が伴っておらず、しかもキーパーはミスが失点に直結するポジションだったので、とにかく沢山迷惑をかけた。負けた方はゲーム後に50m30秒以内で全員が戻らないと延々に続くダッシュを行うのだが、泳ぐのが遅かった自分はそこでもひたすら迷惑をかけた。

 一番最悪なのは、時々行われるシャッフル形式のゲーム練習。Bチームにいる時は負けても仕方ないで済んでいたが、シャッフルとなると話が変わってくる。ここでも沢山迷惑をかけてレギュラーのメンバーから冷たい目で見られる事も度々あった。

 当然、本大会で自分がメンバーに入る訳もなく、3年生中心のメンバーは高校では向かうところ敵なしで高校3冠を成し遂げていく。

 3年生は秋の国体を終えて、部活動は引退。いよいよ自分たちの世代になり、初めての秋の大会では、県内の高校にも敗れ、これがきっかけで県の選抜メンバーで構成される春のジュニアオリンピックからもメンバー漏れすることになる。

 この時は本当に落ち込んだ。それもメンバー漏れを伝えられたのは、いざ大会の予選が始まる前日だったから、全く切り替えが出来なかった。特待生だったこともあり、退部=退学だった為、高校を辞めようかとも考えた。両親は何か他のチームメイトの保護者から何かズルい事があったのではないかと言ったが、あれは完全に自分の実力不足だったと思う。

 こうしてかなりネガティブな時期が続いたが、1つだけ良い事があった。この年の春高校でアメリカ修学旅行があったのだが、春の選抜メンバーはクラスの日程から離れ、部活メンバーで行ったのに対し、自分はメンバー漏れしたことでクラスの友達と行く事が出来たからだ。

 この修学旅行は本当に楽しかった。そしてこの時のクラスメイトは40歳を過ぎた今でも定期的に会っている。本当に自分の中で大きな財産となっている。

 この修学旅行を経て、この後生まれて初めての告白をする。

相手はクラスメイト。吹奏楽部に所属していた、同級生だけど姉御肌で、周りからはあねさんと呼ばれていた。

 元々仲が良かったのだが、2年生の後半頃からお互いに電話で話をしたりするようになり、部活のない日は毎日のように長電話をしていた。

 彼女は当時憎き野球部に片思いをしていたり、なんか付き合ったと思ったら裏切られたりでかなり傷ついたりしていた。普段姉御肌にも関わらず、そんな弱い一面を見せられて、そのギャップに惹かれてしまった。今思えば、ありがちでめっちゃ単純な理由だったと思う。

 初めての告白は電話だったが、さすがに決意をして電話をかける瞬間は手が震えた。

どういう言葉でどのように伝えたか、全く覚えていないが、その時は一旦保留となり、淡い期待を残したものの、数日後に正式にお断りの連絡を受けた。

 初めての告白、そして初めてフラれた。

 春休みに行われたジュニアオリンピック。正直負けてしまえと思っていたが、そんな気持ちとは裏腹に同級生たちは全国制覇を成し遂げる。

 クラスでの楽しさと、なんだかんだ言っても、負けたまま終わりたくないという想いで、学校を辞める事なく、無事に3年生になった。

 自分に残されたチャンスは夏のインターハイと秋の国体のみ。小学生の時から思い続けたメダル獲得をここに賭けることとなった。

 が、ここでまた大きな出来事があった。中学でMVPを取ったゴールキーパーが入学してきたのだ。

 これには本当に焦った。最後の年に1年生にレギュラーを奪われるのかと。がそれによって火が付いたのも事実だった。

 細かい時期は覚えていないが、一時期自分でもかなり手ごたえを感じる時期があった。

よく遠征で大学生と練習試合をしていたのだが、決定的な場面でのシュートストップが度々あったからだ。練習中でも、チームメイトのシュート練習を高い確率でセーブ出来ていたし、この頃からポジションを取られるかもといった不安は消えていった。

 そうして迎えた最後の大会。戦前での優勝候補は同じ県内にあり、秋の大会で負けた高校だった。初めの県大会でここに負けても、次の関東大会には出場できるが、ここでの結果が県で構成される国体メンバーの選抜にも大きく影響してくる為、なんとか県大会で叩いておきたかった。

 結果は1点差で敗退。これで国体メンバーの目はほぼ消えることとなる。残されたインターハイ。関東から上位4校がインターハイ出場となり、無事ベスト4進出を果たすが、準決勝でまた同じチームに延長戦の末、敗退。1点差で勝っていた試合終了直前に決められた自分が絶対に止めなければいけなかったループシュートは、今も時折夢に出てくるほど、トラウマとなっている。

 関東3位という結果で臨んだインターハイ本戦。下馬評では圧倒的有利と言われていた高校相手に1点差で1回戦敗退。しかも自身は試合中盤で1年生ゴールキーパーと交代。

これが8年間続けてきた水球の公式戦最終試合となった。

 中学時代から全国大会の試合で負けた時、自然で涙が流れてきたのだが、この時だけは涙が出なかった。それどころか、試合途中で交代を命じられた時、恥ずかしい気持ちもあったが、どこかでホッとした気持ちを抱いたことを覚えている。

 これまでの水球生活を振り返った時、全て要所の試合は1点差負けだった。惜しくも見えるが、これが気持ちの差なんだと思う。先輩たちと試合をしていた時も、全国大会でも大事な試合になると、やってやるという気持ちではなく、ミスしたらどうしようという気持ちが先に立つ。これが練習試合で手ごたえを残しても、いざ大事な試合でベストパフォーマンスが出せない理由だと思う。自分はきっと勝負事には向いていない。

 部活を引退して、大学でも水球を続けたいというメンバーもいた中で、自分はその選択肢は全く生まれなかった。今度こそごく普通の学校生活を送っていこうと決心した。

 最後になるが、この時のチームメイトには本当に感謝している。特に中学時代からチームメイトで高校でもキャプテンだった彼の存在は本当に支えとなっていたし、見限ることなく粘り強く指導してくれたコーチの存在は非常に大きかった。これだけパフォーマンスが良くない自分を責める事なく、最後まで受け入れてくれた。

 元々中学時代の監督の圧に負けて入学した高校での生活だったが、周囲の人間関係には本当に恵まれて、充実した毎日を送る事が出来た。

 そして部活を引退して迎えた2学期。改めて進路の事を考え始める。水球を続けないことは決まっていたが、別にやりたい事がある訳ではなかった。更には校内では特別選抜クラスにいたとは言え、定期的に受ける模試の結果は悲惨なものだった。秋から高校で受けられる進学塾のサテライト授業を受け始めるが、全く理解が追い付かないし、何よりも範囲が広すぎてどこから手をつければいいのか全くわからなかった。

 一応、水球のインターハイ出場という、あまりにも小さな勲章を盾に自己推薦での入学も目論見たが、いざ面接に行ってみると、甲子園出場選手が並んでいて、更には英語の試験も含まれており、全く歯が立たなかった。

 一般入試での入学を目指すことになるが、この時点で可能性のある大学は限られていた。

一応興味のあった英語系の学部のある大学を受けてはみたものの、手ごたえも感じられないまま敢え無く撃沈する。結局、浪人し、予備校に通い1年後の大学受験を目指すことになる。

 そうして迎えた高校の卒業式。何かわからないけど、色々な思いがこみ上げてきて、最中に号泣してしまった。大して泣いている人もいない中、誰よりも早く、そして誰よりも長く泣き続けた。こうして長いようで短かった埼玉での3年間の生活は終わりを告げた。

 

 (4)浪人期~大学期

 2時間以上かけて通っていた埼玉生活を終え、予備校生活が始まった。予備校に行ってみて、久しぶりに中学校の同級生と顔を合わせた。授業は文系のサテライト授業を受講。約8年間、水球中心の生活を送っていた中で、これだけ勉強中心の生活となったのは生まれて初めてだった。高3の時に模試を受けた時、偏差値38だったのもあって、初めのうちは成績が飛躍的に伸びた。国語・世界史・英語の3科目だったが、特に英語が最初の半年で60を超えた。

 海外旅行が好きだったこともあって、大学は英語が盛んなキリスト教系の大学を受験する事に決めた。

一方、プライベートはと言うと、高校の厳しい校則から開放され、左耳にピアスを開け、髪を染め、似合いもしないパーマをかけた。

予備校に慣れてきてから、初めてのアルバイトも始めた。近所のお弁当屋さん。

ジャムおじさんみたいな店長とヤンキーっぽい女の先輩と、見た目の冴えない、でも生意気な高校生が中心のアルバイト。本当はもう少し華やかで同世代の多そうなアルバイトがしたかったのだが、カラオケやファミレスの面接に落ち、残ったのがここだけだった。とは言え、家からも近く、夜遅くなかったので、予備校生活にはちょうど良かった。

アルバイトと予備校でうまくバランスを取りながら、合間で友達で遊びに行ったり、これまでにはない生活の自由と充実を感じていた。

そうして迎えた秋ごろ、ある日突然小学校の同級生から連絡があり、小学校時代のクラスメイトで集まっているから来ないかと誘いを受けた。

行ってみると、中学から私立に行ったクラスメイトも含め、男女7、8人集まっていた。中学校も一緒だったメンバーもいたが、ほぼ全員が何年も会っていなかったが、取り留めもない話で盛り上がった。

その時会ったメンバー数人とは、その後も数回会ってご飯を食べに行ったりした。そこである一人の男子から、メンバー内の女子1人に好意を持っているという相談を受けた。そしてほぼ同時期に今度はその男子が好意を持っている女子から、この男子から好意を持たれているのだが、どう接していいのかわからないと相談を受けた。

そしてそこからどういう経緯があったのかは覚えていない。ただこの年タイムリーにしし座流星群が見れる年だったのだが、ある日星を見に行こうと誘われ、そこで星の力も借りて、そのまま付き合う流れとなった。

付き合う事が決まった時、友達のことはすっかり忘れ、相当舞い上がった。生まれて初めての彼女。しかもその彼女が、友達が好意を持っているという点で、変な優越感を抱いてしまった。

そして、ある日面白半分でそのグループのメンバーに電話で付き合い始めた事を告げた時、皆から激怒された。普通に考えれば、当たり前のことなのだが、何故かその時は面白いんじゃないかと思ってしまった。普段は大人しくて自己主張の少ない友達からもしっかりと怒られた。

厳密に言うと、怒られるという表現より、失望されるという表現の方が近いかもしれない。結果として、生まれて初めて出来た彼女と引き換えに、せっかく出来た友達たちを失う結果となってしまった。

初めての彼女は絵にかいたような箱入り娘だった。

お父さんは当時小学校の時はPTA会長で、近所にビルを沢山持っていた。彼女自身も小さな頃からクラシックバレエを習い、公立の中学校を卒業後、近所の進学校に入学し、そのままストレートで1流大学に進学。勉強は出来るが、あまり世間の厳しい所や汚い世界は知らず、恋愛にもどこか少女漫画のような夢を見ているような、そんな感じの子だった。

当然会話がそんなに合うはずはなかったが、自分は初めての彼女だった事もあり、引き続き優越感を感じ、どこかステータスのように付き合っていた様に思う。予備校の合間を縫って遊びに行ったり、年末年始はディズニーランドのカウントダウンに行ったりした。生活の充実具合はこれまでとは大きく変わった。

相手が良いところのお嬢様という事もあり、勉強を疎かにする訳にはいかないと思い、すぐ楽な方に流れる自分の性格としては珍しく、勉強と比較的両立出来ていたようには思うが、その後の結果を考えると、やっぱり要所では気を抜いていたのだろう。

2月に入り、いざ受験が始まったが、手応えを感じた試験は少なかった。初めのすべり止めのつもりで受けた大学に落ち、全滅も覚悟したが、1校だけ何とか合格。晴れて浪人生活は終了する事になった。

3月から1カ月はとにかく遊び倒した。彼女と気兼ねなくデートに行ったり、親戚の住むハワイへ遊びに行ったりもした。ハワイで火傷するほどに日焼けした後、色黒の状態で大学の入学式を迎える。

大学は祖父の住んでいる家の近くにあり、自宅からは1時間半くらいかかる山の上にあった。一応、希望通りの英文系の学科に所属したのだが、行ってみると学科内の女子の比率が高くてすごく驚いた。高校は共学とは言え、圧倒的に男子が多かったし、校則が厳しかったこともあって、いわゆる今時の女子を、しかもこんなに沢山見たことがなかった。

この事実は、すぐに自分に大きな勘違いをさせる事になる。そして入学して間もなく、大きな決断をさせる事になる。初めて出来た彼女との別れだ。

決断から行動までは早かった。おそらく入学して1週間も経っていなかったと思う。あれだけ友達を失ってまで、出来た彼女だったのに不思議と何のためらいもなかった。

彼女との別れの後、髪を金に近い色にし、ピアスの穴を一回り大きくした。気合十分。

しかし、ここで自身の大きく致命的な欠点に気付く事となる。

致命的な欠点。それは絶望的な人見知りだ。

この人見知りにあまり気が付かなかったのは、これまでの生活ではクラスというものが存在していたため、自分から発信しなくても自然と話をするきっかけが生まれていたからだ。ところが、大学では一部の必修授業を除いて、自分で授業を選択する上に、授業ごとにメンバーが変わる。きっかけを待っているだけだと、そのきっかけは一向に訪れないまま、

本当にただ授業を受けて終わるだけになる。どうにかきっかけを作るためにサークルに入ることも考えたが、これまでに経験のないあの何とも言えない勧誘の雰囲気に飛び込む勇気が持てず、入るタイミングも逃してしまう。

 この人見知りの一番タチが悪いのは、コミュニケーションを取らなければ、愛想の悪い暗い奴に見えるし、かと言って積極的に話しかけると、空回りしてクソつまらない奴になる。

 このままでは大学生活なんの楽しみもなく終わってしまう。この問題を解決する為に考えた自分の策は、とにかく人間性はともかく、誰とでも気兼ねなく話の出来る人間、当時でいうチャラ男と呼ばれる人間の傍にいる事だ。大学生活は中学・高校とは違い、それぞれが知り合いのいない環境で入学してくるのがほとんどで、必ず交友関係を広めようと片っ端から話しかけてくる人間がいた。

予想通り、入学して1週間も経たないうちにやたらと話しかけてくる男子がいた。

こいつのおかげで人見知りだった自分も話を出来る人間が少しずつ増えていった。そして、こいつは男子から広げていった交友関係を徐々に女子にも広げていき、そして広げていけばいく程、見事に嫌われていった。

そんなこんなで始まった大学生活。期待していた程、明るいスタートは切れなかったが、少なからず友達も出来、生活には徐々に慣れていった。

新しくアルバイトも始めた。地元の隣の駅にある映画館だ。選んだ理由はタダで映画が見れるのではないかという単純な動機で始めたが、学生バイトも非常に多く、また自分が配属となった売店では同じタイミングで自分も含め5人の採用があり、勤務を通して仲良くなるのにそれ程時間はかからなかった。その後、そのアルバイト先では定期的に飲みに行ったり、その内の何人かでディズニーに遊びに行ったりと、非常に充実した生活を送る事が出来た。

大学でも一人仲良くなった女の子がいた。地元が近く、コミュニケーション能力が自分から見ると化け物みたいな女の子。通称オバちゃん。

テスト前には一緒に勉強をし、時にはご飯を食べたり、飲みに行ったりした。お金持ちの娘で大体奢ってくれる。一度その子の家に行ったのだが、和風の平屋でメチャクチャ広かった。

彼女年の夏を迎える前に、学部内のイケイケ系男子と付き合い始めたのだが、話がつまらなかったとのことですぐに別れる。その後も色々な色恋ネタは絶えなかったが、とにかく誰とでも気兼ねなく話せ、かつ自虐したり、イジらせてくれる彼女に徐々に惹かれていった。

ある日、二人で飲みに行ったとき、お酒の勢いも借りて、彼女に告白した所、メチャクチャ爆笑された。そして特に返事もないまま、何事もなかったかのように流されてしまった。

その後も彼女とは友達関係が続き何度か遊びにも行ったが、卒業まで関係性は変わらなかった。

また楽しくやっていた映画館でのアルバイトも5カ月ほどで辞めることとなった。当時の理由としては所属していた部署のマネージャーが好きじゃないとかそんな細やかな理由だったと思う。今現在具体的な理由が全く思い出せないので、おそらくノリに近い物があったのだろう。

映画館でのアルバイトを辞めて、次に始めたのは地元にあるホテルでの宴会業務。ベストに蝶ネクタイで企業のパーティーなどの準備や片付け、時には料理を取り分けたり、お酒を注いだりする業務だ。

仕事内容は決して楽しい仕事ではなかったが、家から徒歩5分だったことと、何より人間関係が良かった事もあって、結局卒業までの3年半続ける事となる。そして大学時代の思い出の多くはこのアルバイトを通じたものとなった。

改めて振り返ってみると、正直大学生活での授業の記憶がまるで出てこない。本当に授業が終わってバイトに行き、そのままそのメンバーで飲んで、時にはカラオケでオールをし、長期休みになると海外旅行をした。

大学1年生の春には初めて語学留学に行った。期間は1か月。一人で海外に行くのは初めての経験だったが、環境に甘えやすい自分は、日本人が少ないという理由で留学先をマルタ共和国に決めた。

マルタ共和国はイタリアからの経由でしか行けず、便も少なかったので当時ローマの空港で半日近く1人で待った記憶がある。

マルタに着いてからの生活はホームステイだったが、トルコ人とのルームシェアだった。当然日本語を話せる訳でもなく、学校に行けば本当に日本人はほとんどいなかった。生徒はヨーロッパ系の人が多く、あとは中国・韓国の人がちらほらと見受けられた。

順調に進んだ海外生活も1週間ほど経つと、強烈なホームシックに襲われる。日本語が話せない事で気軽な会話が出来ない事、知らないトルコ人とのルームシェア、更に食事はイタリア料理がメインだったが、朝はカサカサのパンとコーヒー、夜はピザがホールで1枚といった料理ばかりで精神的にもいっぱいいっぱいになってしまった。

何かあった時の為に携帯電話は持っていたが、日本にかけると相当な金額が発生する。更には今でいうラインやフェイスブックといったものはなく、メールでの通信手段はネットカフェに行ってのホットメールくらいだった。

この状況を救ってくれたのは、クラスメイトだった韓国人だった。彼は僕より2,3歳上だったが、僕より英語を話せたし、日本語も少しだけ話せた事もあって、一緒に遊びに連れていってくれたり、他の友達も紹介してくれたり、韓国料理を振る舞ってくれた事もあった。そこから徐々に気軽に話せる友人も増え始め、留学生活が劇的に楽しくなった。

そして1か月のマルタ留学を満喫し、イタリアに1週間旅行をした。行き先はローマ・フィレンツェ・ヴェネチア・ミラノの4都市だ。地球の歩き方を片手に大荷物を持った気の弱そうな日本人が歩いているのは、悪い人たちからすると絶好のカモだったと思うが、特に危ない目には合わず、唯一声をかけられたのは左耳にピアスをしていたせいか、君はゲイかと空港の税関に茶化されたことくらいだっただけで、マルタで学んだ片言の英語を駆使しながら、ほぼほぼ計画通りに行動する事が出来た。

曲りなりにも言葉が不自由な場所で1か月を過ごせた事は自分の中で少なからず自信になった。英語の上達は今一つではあったが、その場所場所で人の優しさに救われ、非常に充実した日々を送る事が出来た。そしてこれ以降一人旅をする事が自分のステータスを上げるという大きな勘違いをする事になる。

2年時の秋にサイパンにダイビングにライセンスを取りにいった。そして、冬にはたまたまテレビを見たことがきっかけでホノルルマラソンに出場する。昔から運動全般得意ではなかったが、唯一持久力だけは自信があったので、キレイな景色を見ながら楽しく完走出来るのではと思った。

3カ月くらい前から走り込みを始めて、地元の10キロマラソンに出場したりもした。そうして迎えた当日。ギャラリーも含めるとおそらく何万人もの人がいて、とにかくお祭り騒ぎだった。

朝5時、暗い中スタートし、沢山の人と一緒に走り始めた。1人で行っていたが、とにかく本当に賑やかで本当に楽しかった。段々と朝日が昇ってきて、気温も上がり始め、横には一面に海が広がっていて、時に写真を取りながら、余裕を持って走っていたが、20キロを過ぎた辺りからしんどくなってくる。体力的な問題というよりは、とにかく足が痛い。30キロくらいになるともう景色を楽しむ余裕は全くなくなった。

ゴール予定時間に合わせたペースメーカーが一緒に走っているのだが、初めは4時間のペースメーカーが後方にいたはずなのだが、やがて抜かれていき、後半になると5時間のペースメーカーにも抜かれていく。最後には、何かのキャラクターの扮装をして走っている人にまで抜かれていった。

それでも何とか完走。記録は5時間29分だった。全体順位で言うとちょうど真ん中くらいだった。

走った当日の午後と、翌日はフリーだったのだが、足の痛みが激しく、ほとんど外に出る事が出来なかったのを覚えている。

こうして初めの大学2年間を覚えている範囲で振り返って見ると、ほとんどのエピソードがアルバイトと旅行のエピソードしか出てこない。それでも、意外にも単位は順調に取っていたので、3年になると授業のコマ数が少し減り、またキャンパスは都内に変わり、より自由時間が増え、また遊びに行く事も増えた。

遊びの中心となっていたのは、大学よりもアルバイト仲間だった。

地元のホテルのアルバイトは夏場になると、屋上でビアガーデンを開いていて、毎年行われる地元の花火大会では出店したりしていて、これが本当に楽しかった。ビアガーデン限定のアルバイトが複数採用されるのだが、ここで学生たちが新たに入ってきて、宴会の時のノリとはまた違う同世代ばかりでの楽しさがあった。仕事が終わると、皆で飲みに行ったり、時にはその中の数人と遊びに行ったりした。

そんな中で大学でもちょっとした出来事があった。受講していた授業でたまたまランダムで選ばれる4人グループの授業があったのだが、一緒のグループになった女の子の一人がメチャクチャタイプだった。

通称さゆぽん。彼女は3年時に別大学から転入してきたらしく、周りに友達がいなかった。正直すごいラッキーだと思った。人見知りの自分でも話しかけやすかったからだ。それからというものグループ課題を理由に授業外も定期的に会うようになったし、たまに重なる講義で彼女は大体一人だったので、隣に座ったりもした。課題が終わったあとは、お疲れ会という名目のもと、グループで江の島の花火大会に行ったりもした。そして、そのあとは当時免許を取ったばかりだったが、親から車を借りてキャンプに行ったりもした。

大学内にいわゆる今時の可愛い娘は沢山いたが、さゆぽんは可愛いけど、ちょっとそういう子とは違っていた。富山出身で話し方には訛りがあるし、服装もどちらかと言うと地味で素朴な感じだった。

しかし、男友達内で話すと、必ず名前が挙がってくる。実際講義中に彼女と話していると、それ程仲良くない学科内の男子からもあの娘可愛いねと話しかけられたりもした。

一つだけ残念だったのは、高校から長年付き合っている地元の彼氏がいた事だった。

実際、彼女は遊びに誘うと、グループではOKしてくれるのだが、個人的な誘いは受けてはくれなかった。

この後も大学時代色々な子が気になったり、時には遊びに行ったりしたが、顔だけで言ったら間違いなく1番だったと思う。が、結局友達以上の関係にはなれなかった。

大学3年時の秋には女の子と二人でタイに1週間ほど旅行に行った。彼女は中学校時代の同級生で中学2年の時に同じクラスで席が隣になり、仲良くなっていた。しかし、3年時にクラスが離れて以降は、全く会話をする事なく、それっきりになっていたのだが、共通の友人がいた事もあって、何年かぶりに連絡を取る様になった。

通称やっちゃん。中学時代、自分は彼女に憧れを抱いていた。どちらかと言うと控えめで大人しい部分はあったが、当時学年1位の秀才だった。クラスの面白い人以外で何においても1番を取ったことない自分はそれだけで憧れた。

 そんな彼女と何年かぶりに再開したわけだが、意外に会話は盛り上がった。彼女は中学卒業後、前の彼女と同じ地元の進学校に入学、その後現役で、1流の理系の大学に進学していたが、英語や海外旅行に興味があり、その事でこれまでの自分のエピソードに興味を持って聞いてくれている様だった。

 そこから一緒に旅行しようという話になり、自分もこれまでに行ったことがなく、かつ彼女も興味を示した東南アジアから色々なサイトを見て、タイに行く事を決めた。

 この時、特に何も言われた訳ではなかったが、彼女は間違いなく自分に好意を持ってくれていると勘違いをしていた。だからこそ、この旅行で何か特別な関係が生まれるのではないかと、淡い期待を抱きながら旅行に出発したのを覚えている。

 しかし、この淡い期待は脆くも消え去っていく。初めの方は彼女の事前の計画通りに無駄なく様々な名所に行く事が出来た。途中、タイの中でも特に田舎の地域に行く1泊ツアーに参加し、当時のウルルン滞在記みたいな経験をする事が出来た。後半は自分の行きたい所に行く計画だったが、ここで計画力の乏しさが浮き彫りになる。段取りが悪く、行った先でも事前のリサーチが足りず、思うような体験も経験も出来なかった。旅も後半になり、徐々に疲れが溜まっていたことも重なって、段々と二人の会話が少なくなっていた記憶がある。宿泊先もその場その場で環境設備の悪い安宿に泊まっていたことも疲れを増幅させる一因となっていた。1週間近く同じ部屋で寝ていたにも関わらず、全く男女の関係になる気配はなく、関係性だけが悪くなって旅行は終了となった。

 帰国後は、お互いに撮った写真の交換とかをすることもなく、全く連絡を取らなくなった。 

せっかく数年ぶりの再会で初めての女の子との海外旅行だったのに、苦い思い出となった。

 大学3年生も後半となってくると、周りが徐々に就職活動に動き始める。

自分の学科は教員免許も取得できるので、教員を目指す人も一定数いたし、実際自分の取得のための講義も受けていたが、教員になるつもりは全くなかった。とは言え具体的に何をしたいとか全くなかったので、周りの雰囲気に流されながら、何となく知っている企業名の所の説明会に行ったり、エントリーシートを出したりした。

 

 その中でざっくりと、出版・旅行・教育・飲食辺りを中心に動き始めるようになった。何がやりたいというよりも、自分の好きな事に関連しそうな事だけに絞らないと、キリがないと思ったからだ。

 

 振り返って見ても、少なからずの圧迫面接のようなものもあったが、就職活動は概ね楽しかった。まったく対策は立てていなかったが、周りの同級生と比べた時に、話が出来るエピソードだけは沢山あったからだ。集団面接で先に話した人がおそらくマニュアル本を読んでステレオタイプな答えを出しているのを聞けば聞くほど、自分に自信を持てた。

 グループディスカッションも比較的得意な方だった。合っているかどうかはともかく、自分の意見をぶつけたり、周りの意見を聞いてまとめたりするのは嫌いじゃなかった。

 実際にグループディスカッションや面接ではほとんど落ちなかった。ただ、エントリーシートや学力テスト、論文などを必要とする企業は軒並み落ちた。

 実際年が明けてから始めた就職活動も3月には1社内定をもらったことで、その後の活動はより興味が持てそうな所だけに絞って行った。

 その中で、面接や説明会の際の社員さんたちの人柄に惹かれて、ここで働きたいと思えた大手出版社系列の人材派遣会社から内定を頂き、ここに入社する事を決めた。

 大学4年生の4月の事だった。

 ゴールデンウィークが明けると、地元の中学校で3週間の教育実習があった。先に言った通り、教員になる気持ちは微塵もなかったが、取得しておけば、今後何かの役に立てるかもくらいの気持ちしかなかったが、本当になかなかの地獄だった。

 

 地獄と感じた理由は、人に教えられる程、英語が得意ではないという事や、単純にやる事が多く、拘束時間が長いという事もあったが、それ以上に深刻な問題はいわゆる子どもが得意ではないという事だ。10歳近い歳の差は思いのほか大きく、何を話していいかもわからず、そしてノリにも付いていけなかった。面白くなかった。本当に面白くなかった。

 ただ、実習生には中学時代の先輩が二人いて、その人たち含め、実習生同士で話をするのだけは楽しかった。

 懺悔したいエピソードが一つだけある。

夜遅くまで残ることが多かったのだが、我慢できずにベランダでタバコを吸ってしまったのだが、翌日、校内でタバコの吸い跡があると学内で問題になってしまった。生徒に濡れ衣を着せてしまったことについてはここで謝罪させていただきたい。

 実習最終日、担当していたクラスの生徒から色紙や歌のプレゼントがあり、これには感動した。そして個人的に似顔絵とか貰ったりもしたのだが、中学の先輩は自分よりはるかに多くプレゼントを貰っていた。

 教育実習が終わると、学校に行く事も多くなくなった。ゼミの卒業論文などもなく、より一層アルバイト中心の生活となった。アルバイトが終わると、皆で飲みにいき、二日酔いのまま翌日もバイト、お金が溜まったら旅行に行く、そんな生活を繰り返していた。

 この頃一緒に働いている学生アルバイトの子を好きになる。グループで海に行ったり、花火大会に行ったりしたのだが、結果としては一緒に働いていた色々な女の子との噂が絶えない先輩と付き合ったと思ったら、しばらくして自分が一番仲良かった男友達と付き合っていた。

 大学時代を振り返った時、ここには全て書いていないが、自分が仲良くなった子が自分の友達の事が好きになるケースは本当に多かった。そしてそれは大学時代に限らず、その後も続いていくのだが、この時代を経たことで耐性がついていく。

 その後、当時仲良くしていた子と台湾に旅行に行ったりあったが、これも旅行を経て、仲が悪くなり、その後連絡を取らなくなる。おそらく、自分は誰かと旅行に行くのが向いていないのかもしれないと思った。

 最後の3月には、男友達とインドに旅行をし、大学の卒業式に出席後、3週間アメリカ西海岸に一人旅をする。最後にまた自己満足のステータス向上を行い、いざ社会人に向けての準備を整える。

 (5)R期

 2006年4月、晴れて社会人となった。

 初めの3か月は研修期間として横浜支社に10人の同期が集まった。初めの2週間程度は他の先輩社員に同行し、仕事内容を知る事、そしてその後は市場開発という名目で、飛び込み営業をひたすら続ける事となった。

 朝から夕方まで飛び込みを続ける。大きなビルだと上の階から1つ1つ営業をかけていく。夕方支社に帰り、10人の同期と2人のリーダーと共に振り返りを行い、その日の成果を発表する。

 

 絶望的な人見知りとコミュニケーション能力の低さ、更には人材派遣に関しての知識がほぼほぼない状態で行う飛び込み営業は本当に地獄だった。9割方入口で断られ、1割方の人は挨拶・名刺交換程度。100件中1件くらいは話は聞いてもらえるが、話す程の知識もないので、これはこれで地獄だった。

 自分は飛び込み営業に関して、全然成果を上げられなかったが、同期の中には早々に成果を出している人もいて、それが尚更苦しかった。負けない様に自分も頑張らなきゃと思えれば良かったのだが、自分の性格だからしょうがないとある意味諦めモードになってしまっていた。

 それでも、この3か月は非常に充実した期間だった。同期・先輩。上司たちは話していても本当に魅力的な人が多く、仕事終わりには良く飲みにも行ったし、休みになれば皆で遊びに行ったりもした。

 この会社の人たちが全体的に魅力を感じたのはいくつか理由がある。男女問わず、コミュニケーション能力が本当に高い。話は面白いし、かと言って自分ばかりが話をするのではなく、人の話を聞いたり、引き出したりするのも上手。仕事はしっかりやるし、仕事に対してのプライドもしっかり持っているのに、プライベートは意外とだらしなかったりして、後輩たちがツッコめる様なスキを与えてくれる。本当に自分がなりたい人間像そのものだった。

 そしてまたここで好きな子が出来る。横浜で研修が一緒だった同期の一人。惹かれたポイントは圧倒的なコミュニケーション能力の高さ。この会社の人は同期も皆コミュニケーション能力は高かったけど、この子のその能力はその中でも異質だと思っていた。

 ある日、またもお酒の力も借りて、告白にもならない様な好きアピールをしてみたのだが、笑ってはぐらかされて終わる。そしてこの子はその後別の同期との付き合いを経て、その後、自分が一番仲の良かった同期と付き合う事になる。

 3か月の研修期間が終了し、その後地元である厚木支社に本配属となったが、ここからが本当の地獄だった。本配属になると、担当企業やスタッフを持ち営業をするものだと思っていたのだが、最初に任された仕事はまたしても新規開拓、つまり飛び込み営業だった。

 

 横浜時代と比べると、同じ飛び込み営業でもオフィス街ばかりではなく、工業地帯の様な飛び込みも多くなり、1日の飛び込み件数が減り、歩く距離だけが長くなった。また、同期で同じ配属先はいなかったので、そういった部分を共有したり、競ったりする人間もおらず、ただ黙々と飛び込み、それを先輩に報告する毎日。

 今にして思えば、これまでの3カ月間の環境が特殊だっただけで、これが当たり前の環境だった様に思う。ただ愚痴れる同期は身近におらず、契約も取れないこの1か月は本当に苦しかった。

 初めて契約を取れたのは厚木に配属になって1か月が経過していた。契約が取れた時は本当に嬉しかった。支社の先輩方も本当に協力してくれたし、一緒になって喜んでくれた。ようやく支社の一員になれた気がした、

 支社に配属になり3カ月。ようやく担当顧客を持つ様になる。主な仕事は担当企業とそこで働いているスタッフの仲介し長期勤務に繋げる事と企業からの新しいニーズを掴む事だ。

 ようやく顧客を持ち、飛び込みばかりの毎日が終わったと思ったが、これはこれで想像以上に大変だった。企業に派遣されているスタッフはほとんどが年上、更には自分の知識不足もあり、企業担当者・スタッフ共に頼りない印象を与えていたと思う。

 案の定、結果は全くと言っていいほど出なかった。その内に企業に出向くのも怖くなった。かと言って支社にいるのも辛かった。自然とファミレスやマン喫で時間を潰す事が増え、より一層結果は出なくなった。

 結果が出ないのはもちろん、それをどうにかしようという姿勢も見られなかった事で、周りの見る眼は怖くなっていった(様に感じた)。

 だんだんと体調にも支障が出始めた。特に悪くなるのが日曜日の夜から月曜日の朝にかけてだ。日曜に寝るのが怖くなり友達を無理矢理誘って、遅くまで付き合わせた。結果、寝不足となり、翌朝吐き気と共に目が覚める。出勤の際にここで車に轢かれたらとか毎日の様に考えていた。

 営業は結果さえ出れば、ほとんどが外回りなので、何をしてようが自由だった。この自由が自分を楽な方へ楽な方へと流していった。

 そしてとある日、月曜日だったのは覚えている。いつも通りに出勤し、ボードにアポイント先の名称を書き、外出。午前中のアポイントを済まし、そのまま帰宅。着替えを済まし、手紙と営業携帯を置いて家を出た。

 そこから先の事ははっきりとは覚えていない。いや、行動としては覚えているがどういう心情だったかは思い出せない。とにかく仕事から離れたい、現実逃避したい、その一心だと思う。

 正直、この先どうなってもいいと思っていたが、プライベートの携帯を持って出たあたりは自分の弱い部分でもあると思う。予想通り、電話は鳴り続けた。あてもなく東海道線を西に向かって走る電車に揺られながら、手の中で震え続ける携帯電話を握りしめていた。

 全てを投げ出せば楽になると思っていたけど、頭にあるのは罪悪感だけだった。結局、職場や両親、友人たちまで多くの人に多大なる迷惑・心配をさせることになった。

 それぞれに電話で無事を伝えたが、泣きながら心配をする母親にこれ以上負担を与える訳にもいかず、5日ほど静岡で滞在したのち、帰る事となる。

 翌週になり、月曜日支社に出向き、それぞれ上司や先輩に謝罪。皆、自分の精神状態を気にしたのだろう。誰も責めなかった。すぐに支社長と面談をし、退職する旨を伝えた。

 その日の夜の事、ずっと良くしてもらっている先輩2名に飲みに誘われた。先輩たちは優しく、熱心に話をしてくれて、そして激を入れてくれた。これだけ迷惑をかけたのに、責めることなく心配してくれた。きっと人の良かった先輩たちは何で助けてやれなかったのだろうという思いがあったのかもしれない。先輩たちの気持ちが十分に感じられた。

 翌日、もう一度支社長と話をして、もう一度続けさせてもらえないかとお願いをし、続ける事となった。

 こんなに迷惑をかけて、それでも続けるという選択肢を与えてくれた会社には感謝しかないし、支社の人たちは本当に温かく迎え入れてくれた。支社の人全員に、自分の母親のメッセージまで入った色紙までもらった。

 この人たちの為にも自分は頑張らなければ。本当にそう思った。

 しかし、その気持ちも長くは続かなかった。

 結果の出ない日々、取引先とのトラブル。次第にまたメンタルが弱っていった。その度に上司や先輩に相談に乗ってもらってきたが、もう無理だと思った。2008年3月。支社長に正式に退職する旨を伝えた。

 支社長の返事は非常にあっさりしていた。もうこれ以上は無理だろうと予想していたのだと思う。反面、先輩や同期たちはすごく残念がってくれた。

 

 わずか2年程度の勤務だったが、本当に素敵な人に囲まれて幸せな2年間だったと思う。そして、あの失踪直後にずぐ辞めなかった事を本当に良かったと思っている。その一方で支社の一員として全く貢献出来なかった事を本当に申し訳ないと思った。

 (6)転職~P期

 退職後、すぐに転職活動に取り組んだ。しかし、何もやりたい物は見つかっていなかった。とりあえず転職会社から勧められた企業の面接を受けまくった。ところが、新卒の時と比べて、活動は思った以上に厳しいものとなった。新卒時の面接が前向きさや行動力、社交性が評価されるのに対して、中途はスキルや将来のビジョン、計画性が重視される。それは物事を深く考えない自分にとって一番苦手な事だった。面接はとにかく落ちまくった。面接中に断られた事もあった。

 落ちまくったのにはもう一つ理由がある。退職理由や面接での発言が「他責性が強い」との事だった。何か嫌な事や困難に直面してダメだった時に人や環境のせいにしている様な発言が多かったと様だ。今となっては大いに納得出来るが、当時は大きく落ち込んで転職活動が怖くなった。段々と受ける頻度が減っていった。

 ここで転機が訪れる。

 きっかけは退職した会社で行われる社内旅行である。当時、仲の良かった同期がグアムに行くのに便乗して、同じスケジュールで個人的に予約を取った。社内旅行といっても、その会社の場合、行き先も日程も選択式で飛行機とホテル以外はフリーなので、外部の人が混ざっても全く問題はなかった。

 とは言え、今思えば退職者が混じっているのだから、深い事情を知らない参加者から見れば「何だ、こいつ?」くらいの感じだったと思うし、冷静に考えればかなりイタイ奴だったと思う。

 しかし、ここで部外者にも関わらず、同期以外の人も誘ってバーベキューを計画したり、夜は同期たちのホテルの部屋で飲み明かしたり、とにかくはしゃぎ倒した。

 そして一つの事に気付いた。「自分から何かを売り込む積極性やスキルはなくても、来て頂いた人に満足を与える事は出来るのではないか」と。

 とある先輩から言われた事があった。営業スタイルはその人のプライベートな部分が大きく関わっていると。自分はプライベートでもガツガツやグイグイ引っ張るタイプではない。人見知りも激しいし、どちらかと言えば徐々に知ってもらって仲良くなっていくタイプだった。だとしたら、営業よりも接客サービスの方が向いているのではないか、と。

 帰国してすぐに転職活動を再開する。ポイントは早くマネジメントが学べて、未経験でも可能な飲食業。マネジメントを早く学びたいと思ったのは、やるからには最終的に独立を目指したいからだ。飲食を選んだのはグアムでの経験もあって、自分でもああいう空間や感動を与えたいと思ったからだった。

 友人が転職会社に勤めていたので、以上を条件に相談したところ、勧められたのが某宅配ピザの会社だった。接客シーンは少ないが、大手で実力主義で本人の努力次第で成長していけるのと、福利厚生もしっかりしているとの事だった。

 すぐに応募をし、2回の面接を経て、採用が決まった。

 採用が決まって、勤務が始まるまでは1か月もなかったが、色々な友達と遊び、そして沢山飲んだ。前の会社の同期と泊まりで旅行に行き、海で坊主にもされた。前年「今年彼女が出来なかったら坊主にする」と飲みの席で言った他愛もない一言のせいで、大切な入社初日を坊主で迎える事になった。

 

 そして迎えた入社初日、勤務先も知らされぬまま採用先の本社に行く。入社前に勤務先は都内のどこかという事だけ知らされていたが、当日集められた場所で指定された席に座ると、自分の名前の下に勤務先が松戸中央店と書かれていた。配属先はまさかの千葉だった。

 同じタイミングで入社した同期は10名。中途採用なので、年齢もバラバラ。30を超えている人もいたし、アルバイトから社員になった20代前半の人もいた。

 簡単なオリエンテーションを受け、地図だけをもらい、いざ配属先へ向かう。松戸に配属されたのは自分以外にももう1人いた。露店でアクセサリーを売っていたという異色の経歴の持ち主。年齢は自分よりも少し上だったが、見掛けは怖さとは違い、話してみると非常に優しそうだった。

 初日はお店に行って、簡単な挨拶をした後は用意してもらった部屋まで送ってもらう。

よくよく考えると寮生活はあったものの初めての一人暮らし。会社から与えられた住まいはマンスリーのアパートで一人で暮らすには十分過ぎる広さがあり、そしてきれいだった。自然とテンションが上がった。

 初めの1週間は本社での座学がメインとなったが、その後は店舗での実習が始まった。初めは電話での注文受付とバイクでの配達。電話に関しては大きな問題はなかったが、バイクの運転には大きな問題があった。大学時代に免許は取得し、たまに車の運転はしていたが、原付の運転は初めてだった。慣れるまでに時間がかかった。

 そしてそれ以上に大変だったのは地図の把握。ピザ屋には配達エリアの巨大な地図が貼られており、それを見て配達先のルートを調べるのだが、まぁ良く迷った。本当にセンスないと思った。周りも気付いてか段々と遠いエリアをあてられる事は少なくなった。

 ピザ屋の配達のバイトと言うと、やんちゃな子が多いイメージだったが、やはりイメージ通りだった。ただ、そこの店長の教育もあってか、割と人懐っこくて、優しい子が多かった。職場環境に関しては大きな問題は生まれなかった。

 一緒に配属になった同期が1か月で辞めたり、非常に気の合わない社員がいたり、途中で契約が切れたからと翌日いきなり引っ越しをさせられたりと小さな問題はいくつもあったが、段々と環境にも仕事にも慣れてきて、体力的にはしんどかった部分もあったが、それなりにやりがいを感じ始めていた。

 そして松戸に配属になって4か月。研修期間が終了した事もあり、異動をする事になった。異動先は石橋。「石橋?」

 

 調べてみた所、石橋は栃木県だった、宇都宮と小山の間に位置する場所にあった。上野から宇都宮線に乗り、約1時間半、なかなかの田舎だった。

 実際に行ってみると、用意された家の隣がお墓、そこら中に広大な田んぼや畑が広がり、自転車通勤の学生がヘルメットをしていた。ゲーセンも漫画喫茶もない、居酒屋が23時閉まるが、カラオケだけは1件発見できた。コンビニも徒歩5分くらいの所に1件発見できた。

 引っ越し初日にお店に挨拶に行ったが、ピザメイクをしている高校生の女の子が鼻にピアスをしていて大きな衝撃を受けたが、全体的にはこの土地柄にあった穏やかで擦れてない様な子が多い印象を受けた。

 石橋店の店長や自分の2つ上くらいで、とにかく野心に満ち溢れている様な人だった。あんまり出世に興味のない自分からすると、色々学べる様な気がした。

 

異動が12月だった事もあり、いきなり年末年始のピークを迎える。特に一番忙しくなるのがクリスマスイブ。当日は全てのスタッフが出勤をするが、その中で自分に与えられた役割はカット番だった。

カット番の役割はオーブンから流れ続けるピザをただただ切り続ける役割。ピザ屋のオーブンはベルトコンベア式になっており、ピークタイムは永遠とピザが流れてくる。なので、手際よく切っていかないと、ベルトコンベアのゴール地点でピザが衝突してしまう。

松戸店時代にこのカット番を一度もやっていなかった自分に取って、本当に地獄だった。

ベルトコンベアのペースにカットが追い付かず、衝突を避け、とりあえずピザを拾って置ける場所に避難させるが、段々と非難させる場所すらなくなっていく。それぞれが役割分担されて行っているオペレーションの中で、自分の所で詰まっているのは明白だった。

とりあえずクレームになる様な大きな問題はなく、当日を終わらせる事は出来たが、反省だらけの1日となった。

また年末年始はそこを含めて18連勤となった。これだけの連勤をした事がないので、さすがに体力的にもかなりいっぱいいっぱいだったが、とりあえず新しい環境で過ごした最初の年末年始を何とか乗り切る事が出来た。

12月の勤務時間は270時間を超える結果となった。

年末年始が終わると、急に店は落ち着いた感じになる。初めにピークを経験した事もあり、その後の勤務は比較的順調だった。休みも普通に与えてもらえる様になり、ここにいても暇を潰す物がないので、付き合ってくれそうな友人数人にメールをし、捕まった友人と2時間近くかけて都内へ飲みに行く生活を繰り返していた。

アルバイトスタッフとも少しずつ仲良くなっていった。ほとんどのスタッフが実家暮らし、また居酒屋もほとんどないので、家に招いて軽い飲み会をしたりすることもあった。

 一方で店長との関係性は少しずつ悪くなっていった。原因は色々とあるが、一番の要因は仕事に対しての意欲の問題だったと思う。とにかく野心家の店長からすると、僕の仕事に対する姿勢が物足りなかったのだろう。

 一度店長に言われたのは、「休みの日でも店長は店の事を気にし続けていなければいけない、君は休みの日に一切連絡してこない」と言われた事があった。

 実際、店長は休みの日にも店に顔を出して、次の戦略を考えたりしていた。店長は結婚していて小さな子供もいたが、お店の真ん前に住んでいた事もあって、時には子供を連れて事務所でデータ分析をしていた。

 正直、当時の気持ちとしては全く理解できなかった。そして、そういう話を聞いている自分の不満気な表情にもイライラしていたのだと思う。

でも理解できないながらも、その店長の仕事への取組み方は本当にすごかった。

都心と比べると、結果を残しづらい地方店舗において、チラシやクーポンを配る地域1つにしても、これまでの反応の良し悪しを全てデータで集計し、それだけで足りないとみるや、近隣の幼稚園や保育園に出向き営業をかける事もあった。テイクアウトの売上に可能性を見出し、店舗の入り口のレイアウトを大幅に変更し、営業をかけた幼稚園や保育園の園児たちにピザ屋のキャラクターのイラストを書いてもらって、それを貼り出すことによって、ファミリー層の集客を増やすなど、とにかく結果を出す為に日々色々なアイデアを考え出していた。

 そんな店長の努力は会社にも認められ、年末にある会社の表彰イベントで最優秀店長の候補としてノミネートされる事となった。結果的には最優秀とはならなかったが、少し嬉しい気持ちになったのは覚えている。

 とは言え自分には真似出来ないし、真似したいとも思わなかった。言い方は悪いが、その店長は非常に独善的だったからだ。

 

 一番記憶として残っているのは翌日に控えた店長の昇格試験の時だ。その前日に休みだった自分はいつも通り都内に飲みに行き、最寄駅から家に帰る途中に店長から電話があった。内容は昇格試験に伴い、本部の偉い方が店舗に来るので、店の清掃を手伝って欲しいとの事だった。

 初めは断ろうと思ったが、それによってやんややんや言われるのも嫌だったので、そのまま店に行き、明け方近くまで清掃を手伝う事になった。

 

 この事だけではないが、店長は部下である自分やアルバイトスタッフをどこか駒の様に使っている印象があった。そしてそれは自分だけではなく、アルバイトスタッフの多くが少なからず感じている様だった。

 それは店長としての仕事内容としては間違っていなかったと思う。店長が行うべきは営業のオペレーション以上に売上を伸ばす為の仕組み作りやマネジメントである事は間違いないからだ。ただし、そこに必要だと思われるコミュニケーションや気遣いみたいな物はほとんど感じられなかった。

 自分が目指すべき方向とは違う。そう思っていた。

 なんやかんやあったが、結局1年半以上石橋での勤務を続ける事になった。そして、異動の日は突然やって来た。

 2010年7月、近隣の宇都宮の店舗の店長が問題を起こし、降格される事になり、その後任として店舗責任者を任される事になった。

入社約2年にして、ようやく店舗責任者となった。

異動先は近隣店舗だったが、石橋よりも更に北に上って行き、用意された家は宇都宮駅から徒歩1時間近くかかる場所になった。なので、都内で飲んで帰ると宇都宮からタクシーに乗らなければならず、休みの時の出費がより嵩む様になった。ただ、店舗環境に関しては、時々お手伝いや見学に行っていた事もあり、アルバイトの数人とは顔見知りとなっていたので、馴染むのにはそれ程時間はかからなかった。

 とは言え、それ程多くの店を見てきた訳ではないので一概に比較は出来ないが、相当劣悪な勤務環境だった。

 お店自体は広く、前に幹線道路が走っているので、立地としては悪くないが、とにかく在籍しているアルバイトの質が最悪だった。

 100%遅刻してくる店長代行のアルバイト。バイクの運転が荒く、愛想もないデリバリースタッフ、注文がないからと言って気付くと裏の休憩場所でタバコを吸っていたりする。

 その影響も大いにあったのだろう。売上は在籍当時500店舗近くあった店において、ワースト2位を記録していた。

 確かに外的要因も大いにある。宇都宮の店舗だったが、比較的栄えている中央部ではなく、エリアが北側に位置しており、広い割には住居が少ない、また近隣に競合店が多く存在していた。

 とにかく店舗環境の改善が最優先だと思った。

異動直後の8月はとにかく休みなく働いた。代行を任せるアルバイトがそんなだったので、出来る限りは任せたくなかったからだ。とは言え店舗の導線も変わり、エリアも全く把握していなかったので、そこはアルバイトスタッフに色々と教えてもらいながら、少しずつ覚えていった。

同時にアルバイト募集を始めた。売れない店舗ではあったが、それを差し引いても在籍人数が少なく、これから迎える年末年始に大きな影響を与えると思ったからだった。

中央から少し外れた場所にある事もあり、それ程多くの募集は来なかった。ただ、来ないからと言って、あまりにどうにもならない人間を採用するのも嫌だったので、そこは少なからず厳選して採用を決めた。

夏休み期間中は少なからずの売上はあったが、9月になると本当に暇だった。元々平日の昼間の営業はなく、営業時間は16時~23時。わずか7時間だけだった。そしてひどい日になると1日のピザの売上枚数が8枚、2万円にも届かない日もあった。

しかし、そのお蔭で教育には多くの時間を費やす事が出来た。営業時間外に新人スタッフとチラシ配りに行きながらエリアの把握をさせたり、走行や接客の指導など人件費度返しで十分に時間を使う事が出来た。またピザメイクのスタッフには営業中に一緒にオペレーションに入り、一つ一つ細かく説明をし、暗記が必要な物に関しては定期的に筆記テストを行った。

またこのお店で唯一良かった事はお店が広かった事もあり、上司となるスーパーバイザーが同じ店舗内にデスクを構えていた。20店舗近くを管轄しているので、頻繁にいる訳ではないが、何かあればすぐに相談できる環境が整っていた。

そして、この上司とは今後公私共に仲良くさせて頂くようになる。

お酒と女性が大好きな、自分よりも10歳程度年上の上司は、事あるごとに居酒屋、キャバクラやフィリピンパブ、あとは当時宇都宮で開かれていた街コンまで一緒に行くようになった。

上司のコミュニケーション能力も今まで出会ってきた人の中では異質なものだった。

居酒屋で隣に座っている人でも気兼ねなく、またスマートに話が出来る。上司をきっかけに自分も話に加われたりもしたので、初めての経験ばかりで楽しかった。

ただ自分はお酒が強くなかった為に、この時期定期的によく吐いたが、そんな上司のおかげで仕事は大変だったけど、結構充実した毎日を送っていた。

ちょうどこの頃、プライベートで1つ思い出深いエピソードがある。

相手は大学時代にアルバイト先で好きだった子。彼女は大学卒業後にアルバイト先のホテルにそのまま就職し、自分も仲良かった友人と付き合い始め、その後友人の地元でもある香川で結婚を前提に同棲していたのだが、別れて、実家の群馬に戻っていた。

 彼女とは友人も含め、定期的に連絡をし、時折会っていたのだが、そんな彼女からある日お母さんが亡くなったと連絡を受けた。

 電話の先で落ち込んでいる彼女に対して、不謹慎にもディズニーに行こうと声をかけた。

それからしばらくして、栃木からレンタカーを借り、そのまま群馬の彼女の家まで迎えに行き、そしてディズニーランドに向かった。行った時点でお母さんが亡くなってから数週間は経っていたと思うが、彼女の悲しみに付け込んでいるのは明らかだった。彼女の為ではなく、自分の為。彼女を家まで送った後の帰り道、どうしようもない罪悪感に苛まれたが、その後、特に見向きもされず、何も発展しなかったので、邪な考えではうまくはいかないんだなとしみじみと感じられる経験となった。

話を仕事に戻すと、その後、秋頃に採用したスタッフも順調に成長し、店舗責任者として迎えた最初のクリスマスイブ、自分の中では実力をつけたつもりだったが、やはり自分の未熟さを痛感させられた。予約で溢れる伝票を捌ききれず、最終的にスーパーバイザーの力を大いに借りて、何とか営業を行う事が出来た。

そして年が明けてしばらくするとまた暇な日々が始まる。ここで徐々に変化が表れ始める。勤務態度が悪かったスタッフが自然消滅的に徐々に少なくなっていき、わずか半年程度で全体の8割近くのアルバイトスタッフが自分で採用したメンバーとなった。

環境も少しずつ良くなっていき、同時に売上も徐々に上がっていった。上がった理由は会社の指示で月に数日テイクアウトの半額キャンペーンを行った事と、店舗内でパエリアの配達も並行して行った事が大きかったが、自分としてもスーパーバイザーの知恵も借り、チラシ配りの専属スタッフを採用し、ポスティングの精度を上げた事やそれに伴って配った地域に新築が出来れば手書きで更新してもらい、壁地図も全体的に作り直した事でデリバリー効率が上がったことも少なからず要因に挙げられると思う。

そして何よりも接客の質は以前と比べると大きく向上したと思う。スピードや要領は決して良くないかもしれないけど、明るくて人柄の良いメンバーが徐々に増えていった様な気がした。

少しずつ店舗も軌道に乗り始めたある日、大きな災難が起きる。

忘れもしない2011年3月11日。東日本大震災。。

それは突然の事だった。いつも通り夕方からの営業に向けて店舗で一人準備をしていた時、今までに経験した事のない大きな揺れが起こった。慌てて外に出てみると、地面がグニャリと曲がっている様に見えた。本当に恐ろしかった。直後に店舗内の電気が全て落ち、信号なども全て消えた。あまりにもパニックで周りの状況をほとんど覚えていないが、周りにいる人も何が起こったかをすぐには理解出来ず、ただ茫然と立ち尽くしていた様に記憶している。

電気が止まってしまった為、どうしていいかもわからず、ただお店で待機を続けていた。しばらくしてしっかりとは覚えていないが、店舗の電話が鳴り、とりあえず自宅待機をする様に言われたと思う。

自宅に帰ってからも余震は続き、携帯もなかなか繋がらず、ただただ怖かった。直後はまだ明るい時間だったから良かったが、暗くなると本当に怖くなった。店舗にあったグルグル回すと電気とラジオが聞けるやつを持って帰り、ベッドに横になりただひたすらに回し続けた。やがて携帯の充電が切れかけている事に気付き、このまま家にいても怖いだけなので、店舗のバイクでコンビニまで買いに行った。

信号もなく、車のライトもなく、町は本当に真っ暗だった。考える事は皆一緒で、コンビニは電気が点かない中でも営業を行っていたが、乾電池は売り切れが多く、3件目でようやく手に入れる事が出来た。

携帯のワンセグでニュースを見ようと思ったが、繋がりも悪く、音もほとんど拾えなかったが、所々で繋がった映像を見ると、各所での凄惨な光景が映っていた。

電池も限られているし、余震もずっと続いていたので、電気が復旧するのには時間がかかるだろうと覚悟したので、携帯は極力使わない様にし、ただグルグルと回し続けた。

結局、一睡も出来なかった。夜が今までの人生の中で一番長く感じた。このまま死ぬかもしれない。そう思った。

翌日、朝になっても電気は復旧せず、とりあえず店舗に向かってみる。そして散乱した事務所の整理や、一通りの状況の確認をした。電気が復旧していない以上、営業は出来ないので、近くを歩いてみると、あるレストランでは炊き出しを行っていたり、スーパーでは剥がれ落ちた屋根の瓦を片づけたりしていた。

店の近隣に住んでいるアルバイトスタッフの何人かは店に顔を出したりしていたので、話をしたりしながら、ただ当てもなく時間を過ごしていたが、昼過ぎくらいにいきなり電気が復旧したのを覚えている。

しばらくして本部から連絡があり、出来る範囲で営業する様に言われたのは覚えているが、実際この日に営業したかどうかは覚えていない。それ以上に復旧し、最初にテレビをつけた時の各地の状況にただ茫然としたのを覚えている。

それからしばらくは営業なんかする気にはなれず、とにかく地元に帰りたいという思いが強かった。が、電車も復旧しておらず、ここにいる以外の選択肢はなかった。

12日の営業をどうしたか覚えていないが、13日以降は可能な範囲で営業は行っていたと思う。電気が復旧したし、食材の配送も早い段階で対応が出来ていたので、作る事には特に問題なかったが、一番問題となったのは配達をする上で必要不可欠なガソリンの不足だった。

 当時、ガソリンの供給が限られており、ガソリンを入れるのにも非常に苦労をさせられた。4人くらいで早めに出勤し、1時間くらい並んで、その日の営業に臨んでいた。

震災直後は計画停電などもあり、ガソリンの件も含めて限定的な営業となり、伸び続けていた売上も当然の事ながら大きく落ち込む事となった。しかし3月の後半頃になると、震災前と大きな違いはなくなり、生活に関しても大きな違いは見られなくなった。

唯一、問題として残ったのは福島の原発から漏れた放射能の影響で配達を躊躇う者が少なからずいたが、結局この震災をきっかけに退職する者は1人もいなかった。

しかし、毎日の様にテレビで流れる震災の映像が自分の考えを大きく変えていった。

「いつ死ぬかなんてわからない」

 

この仕事が嫌いになった訳ではなかったが、代わり映えのしない毎日で少し憂鬱な気分になっていた事は事実だった。しかし、歳を重ねると段々と刺激や大きな環境の変化に躊躇う様になる。元々あまり後先を気にして行動をする人間ではなかったが、翌年30という節目の年を迎える事もあり、簡単には決断を下せず、大きく悩んだ。

そんな中できっかけとなったのは、テレビか雑誌かで見たワーキングホリデーに関して1つの情報だった。

「ワーキングホリデーは30歳までしか行けない」

悩んでいた自分の背中を押された様な気になってしまった。すぐに専門誌を買ったり、ネットを見たりしながら、どこの国に行くか、そしてどのくらいの費用がかかるのかを調べた。

ワーキングホリデーの人気となると、カナダやオーストラリアが思い浮かんだが、やはり費用が高い事とあとはせっかく行くなら英語圏ではない所に行こうと思った。

費用面も含めて考えた結果2つに絞られた。中国と韓国だ。

正直、これまでに色々海外旅行も行ったし、アジアの国にも何か所か行ったが、この2か国だけは一切興味を持ったことはなかった。

将来的な事を考えれば、韓国語より中国語の方が有利かと思ったが、どうしても中国に行こうという気持ちにはなれなかった。その当時K-POPも流行っていたし学生時代は冬のソナタに出てくるパク・ヨンハに似ていると言われた事もあって、韓国の方に親近感がわいた。

翌年の退職を心に決めてから、より一層心に決めた事があった。 

 店舗で結果を出す事だ。

前職では何も貢献出来ないまま、周りに沢山の迷惑だけをかけて退職した事は、すごく心に残っていたし、願わくば、惜しまれながら退職をしたかった。

会社では年2回社内キャンペーンがあった。夏と冬に1回ずつあり、売上や利益はもちろん、その時にお客様に配るアンケート評価、クレームの有無、注文受付時におススメするアイスクリームの獲得率など、全ての項目を達成すると表彰される。

売上や利益は前年ベースの目標なので、低売上な店舗でも十分に獲得出来るチャンスはあった。

 夏はここを目標に決めた。

やれる事は限られていたが、人員は揃っていたので余裕を持って営業は出来た。なので、後は、皆でサービスの質を上げていけばいいだけだ。

またチラシ配りもこれまで以上に計画的に行った。業者も使いながら、帰省の多くなるお盆前には一軒家の多い地域に集中的に撒いた。

店舗の協力もあり、いい形で夏の営業を終える事が出来た。 

売上・利益も目標を超え、後に出てきたアンケート結果も上々、アイスクリームの獲得率はベスト10にも入ったし、当然クレームもなかった。

しかし、基準となるアンケートの返信枚数だけが足りず、上司から推薦して頂いたものの、表彰をもらう事は出来なかった。

ただ、この夏の手応えは最大繁忙期となる冬に向けて、大きな自信となった。

冬のキャンペーンでの達成とクリスマスイブの店舗最大売上を次の目標に決めた。

そして、冬の営業も比較的順調に進んでいたが、落とし穴はクリスマスイブに待っていた。

事前予約の時点で夕方からいっぱいとなり、当日注文は受けられない状況になっていた。もちろん、配達にかかる時間を計算し、1時間ごとに受けれる件数を決め、更に全てのお客様に前後30分の時間の余裕を頂いていた。

最も予想外だったのはテイクアウトで来られたお客様が想像をはるかに超えた事だ。しばらくすると予約で来られたお客様にも時間通りに渡せなくなり、店の前の幹線道路は渋滞し、後半はクレームの嵐となった。

一方の配達も予想以上に時間がかかり、段々と時間通りに持っていく事が出来なくなった。後半はピザが来ないという電話が鳴り響き、クレーム処理に追われる事になった。

営業終了が23時、しかし準備や片付けでおおよそ終わったのが1時過ぎ。この時点で翌日の訪問謝罪が必要だったのが2件、翌日本社に入ったクレームが3件と本当に後悔と反省だらけのクリスマスイブとなった。

この日、店舗最大売上と最大枚数を記録したが、同時に自分の今までの営業の中で最低の営業となった。

それ以降は特に大きな問題はなく、繁忙期となる年末年始を終える事が出来た。

そして、店舗が落ち着いてきた1月中旬、上司に退職する旨を伝えた。

 

良く飲みに行ったりもしていたので、もしかすると上司も薄々感じていたのだろう。それでも初めは戸惑った様子を見せていたが、引き留める事はしなかった。

退職は3月末だったが、それまではあっという間だった。最後にはアルバイトスタッフ達が送別会も開いてくれた。

縁もゆかりもない栃木での3年以上にわたる生活となったが、周りの人たちに支えられ、滞りなくやれる事が出来たし、前職でもう社会でやっていけないかもしれないと思った自分にとっては、少なからず結果も出て、前向きな気持ちで退職の日を迎える事が出来た。

4月になり、韓国に出発する6月1日まで一時的に実家に帰る事になった。

(6)韓国期

出発までの2か月まではすごく充実していた。

正直韓国に行ってからに関しては、行き当たりばったりで語学学校も滞在先も決めようと思っていたが、両親のそれだけは止めてほしいという願いもあり、結局、斡旋会社を通し、始め1か月の滞在先と語学学校だけは決める事にした。。

合間で横浜にある韓国大使館にビザの手続きに行ったり、ハローワークに退職の申請、役所への年金支払いの差し止めなどを済ませ、出発に向けて韓国語の勉強をしたりはしたが、それ以外は特別やる事もなかったので、宇都宮にいた時にあまり会えなかった友達に沢山会う事が出来た。

人材派遣会社時代の同期とバーベキューをしたり、三十歳の記念に高校の同窓会を企画し、皆で飲んだりもした。

そしてこの期間に1番経験したかった事。それは被災地ボランティアだった。

この当時数多くの被災地ボランティアのツアーが企画されていたが、その中で参加したのは宮城県の南三陸町のボランティアツアーだった

夜行バスで新宿から出発し、朝方に到着。参加者の自己紹介を行ったが、年齢層はバラバラだったが、思っていたより1人で参加している方が多く参加していた。きっと思いは自分と同じだったと思う。

無力な自分でも少しでも何かの役に立ちたい、そんな想いを持って参加している方が多かったと思う。

実際に現場を目の当たりにすると、皆が無言になった。本当にああいう光景を見ると、誰もが声を出せなくなる。ニュースでは良く見ていた映像が、今目の前で広がっている。

何も言えずに、ただ涙を流す人もいた。

参加した時は、もう1年以上が経過していたが、当時の爪痕ははっきりと残っている。

一面に広がるがれきの山、2時46分で止まった役場の時計。

僕たちがお手伝いさせてもらったのはめかぶの収穫のお手伝いやがれきの撤去作業だったが、30人近くの人が半日やっても、やれるのは本当にごく一部だけ。まだまだ復興までの道のりは遠いし、人の力もまだまだ足りないと強く感じた。

行ってみて感じたこと。やれることは沢山あるが、まずは現地で感じた事を身近な人たちに伝えていくことが大事だと思った。どこかリアリティのないこの大きな災害を、被災していない方もしっかりと受け止めて、考える。一人一人のその積み重ねが復興に向けて、きっと大きな力になる。この時点であと2週間ほどで韓国へ出発だったが、向こうに行っても絶対にここで目にしたこと、感じたことは伝えていこうと思った。

韓国出発直前には両親と箱根に日帰りで遊びに行った。両親とこういう風にどこかへ出かけるのは何年ぶりだったんだろう。最後はお酒を交えながら、ざっくばらんに話をしたのだろうが、残念ながら今となっては何も覚えていない。

そして迎えた出発当日、家族に見送られ空港へ。留学と言いながらも、わずか2時間で到着。宇都宮から実家に帰るよりも早く、ぐっすり眠る暇もなかった。

入国審査も終わって出ると、人の名前の紙を持ったおじさんが立っていて合流。これから行く語学学校の日本語講師の人だった。自分以外にも、他に3人が留学に来ていて、3人ともおそらく自分より若い女の子。狭い車に窮屈に4人が並んで座り、早速ホームステイ先へ。新村という所にあり、10階だて以上の高層マンションの一室が今回お世話になる所だったが、子供しか帰っておらず、しばらくの間待ちぼうけ。

気合入れて子供と超片言で喋ってみるけど、長続きせず。やがてその子供に連れられて別のフロアへ。そこでも待ちぼうけ。しばらく待つと、一人のおばさんが帰ってきた。どうやらこの人が今回のホストマザーらしい。この家族、このホストマザーの娘夫婦、13歳の息子、9歳の娘が10階に4人で暮らしていて、3階にはこのおばさんが一人で住んでいて、そこに間借りする様な形らしい。

すごく、親切で人の良さそうなおばさんだけど、いかんせん日本語はおろか、英語もほとんど話せず、ほとんどコミュニケーションが成り立たない。そしてそのおばさんの娘はホントに軽くは日本語を話せるけど、こちらも英語はほぼ通じず、コミュニケーション困難だった。

そして何より困難だったのは食事。どんな食事でも必ずキムチが出てくる。とある日にはカレーにもキムチがついてて、さすがに驚いた。

3,4日ほどしていよいよ学校が始まった。学校と言っても大学とかでのガチ授業ではなく、語学学校、しかも超初級クラスなのでかなりゆるい空気が漂っていた。クラスは10名程度でそのうち半分は日本人、しかも女子。思ったよりも英語圏の人も多く、合間合間で英語が飛び交っていた。

少なからずは韓国語を勉強していったので、正直授業内容としては少し物足りなかったが、終わった後に皆でご飯を食べに行ったりして、仲良くなるのにはそれ程時間はかからなかった。

ただ、予想はしていたものの、やはり日本人女子の多さにはかなり驚いた。

当時は冬のソナタなどの韓流ブームは過ぎていたが、東方神起やKARA、少女時代などK―POP全盛期でアイドル好きな女子たちが韓国に賑わっていた。

そんなのは気にせず、貪欲に韓国語をマスターすべきだったが、緩い方向に常に流されていく自分の性格はそんな簡単に変える事は出来ず、気が付けば休みの日は日本人の女の子と観光に行ったり、遊びにいったりしていた。

そして、これまでに経験のない出来事が1つあった。

そもそも男が少ないこともあったが、自分を慕ってご飯や遊びに誘ってくれる女子が複数いたことだ。多分片言の英語が話せたことで、クラス内で欧米系の生徒と日本の女の子との間に入ることが多かったこともあって、すごい出来る人に見えたのだろう。

そんな中、韓国に行って2週間ほど経過して、日本人の彼女が出来た。

彼女は僕の3つ下で、語学学校のクラスメイト。長崎に住んでいたが、韓国ドラマが大好きで、同じタイミングで韓国留学をし、同じタイミングで同じクラスに入った。

ここまでの流れでわかると思うが、周りからちょっとした人気者になった上に、彼女が出来たのが相当久しぶりで、前回同様相当舞い上がった。そして残念ながら日本語でのコミュニケーションが増えていくことになる。

彼女は僕が今まで知り合った女の子の中で、あまり出会った事のない女の子だった。突然機嫌が悪くなるのはしょっちゅうで、お世辞にも頭の良い子とは言えず、酒・煙草、ギャンブルが大好きで、わがままで自由奔放な女の子だった。

そんな彼女を選んだ理由はただ一つ。顔がタイプだった。クラスの中でも、一人別格で可愛かったと思う。

しかし、いざ付き合ってみると、想像以上に大変だった。

一緒に勉強していてもすぐ飽きてしまい、気付くと彼女の宿題や課題は自分が行っている事は頻繁にあった。また定期的に謎の体調不良になる。それでいて束縛は激しい。付き合うようになってから、彼女が参加しない飲み会やイベントには参加できなくなり、せっかく出来た友達とも距離が生まれていった。

こんな言い方も失礼だが、顔が可愛くなかったら救いようのない女の子だったと思う。

スタートから色々ありながらも、生活自体は楽しくやっていたが、このままではいけないと思い、アルバイトを始めることにした。韓国留学生向けの日本のサイトから求人情報を調べ、家からバスで10分程度にあるヨイドという所にある日本居酒屋で夕方から週2~3回働くことにした。募集要項には韓国語初級程度でOKと書いてあったが、実際始めてみると、韓国人のオーナーの行っている事が全くわからず、ベテランの日本人の女性スタッフに訳してもらいながらなんとか日々の業務をこなしていった。

そして驚きなのが、時給は5500ウォン。日本円に直すと、400円いくかいかないかくらい。まぁ物価の違いはあるが、勉強の意味合いも考えなければ、とてもじゃないがやっていけなかった。

韓国での生活も数カ月が経つと、生活には全く苦労しなくなった。行きつけのカフェや食堂が出来て、安い金額でお腹を満たす事が出来た。また、ホームステイ先を出て、交流会で知り合った韓国人の紹介でアパートにも引っ越す事が出来、念願の海外での1人暮らしを始める事が出来た。部屋はこれまでに見たことがないほどに狭かったが、学校からも近く、値段もお手頃で、共有スペースにはキッチンもあり、ご飯とキムチくらいであればいつでも食べる事が出来た。

肝心の語学の方はと言うと、読み書きに関しては、かなり順調に覚えていったと思うが、話す事と聞く事に関してはなかなか思う様にはいかなかった。

特に聞くのが本当に難しくて、バイト先でもなかなか他の人とのコミュニケーションが築けずにおり、なかなか仕事に馴染めない日々が続いた。

彼女はと言うと、普段から韓国ドラマを見ていたからか、悔しい事にたいした勉強もしていないのに、聞く事だけは僕よりも遥かに優れていた。

3カ月が経過し、彼女は帰国した。が、1か月ほどしてまた3カ月の留学を決断し、またやってきた。前回はホームステイをしていたが、今回は住む家がなかったので、一緒に暮らす事になった。さすがに部屋が狭すぎるので、2人で住む部屋を探す事になった。

日本でも経験のない、彼女と2人で物件探し、そして同棲生活。

性格に難はあったもののそれでも今までに経験のない同棲生活は楽しかった。部屋にキッチンもついたので、スーパーに一緒に買い出しに行き、家で料理をし、テレビを見ながら談笑し、眠くなったら同じベッドで眠る。

時には喧嘩もしたが、生活には大きな問題なく過ぎて行った。

ただ、語学の成長は今一つで、このままじゃまずいと思い、語学学校を辞め、大学に行くことにした。この時点で留学して半年弱が経過していた。

入学するにあたり、どのレベルに入るかの試験を受けたら、6段階あるクラスの内4番目のクラスに入る事になった。

大学のクラスは基本的に3カ月単位になっており、スタートから入ると一番下のクラスから始まり、3カ月ごとに1つずつ上がっていくらしい。なので、韓国に来て半年ほど経

っていたので、まぁ妥当なレベルのようだった。

ただ、実際に学校に行ってみると大きな問題が一つあった。

クラスは15人ほどだったが、大半は半年ほど一緒に勉強した仲間同士で、かなりのアウェイ環境だった。ご存知の通り人見知りの自分はその輪の中に入っていけず、次第に学校に行くのも億劫になっていった。

その頃、時期的にも冬になり、ソウルの気温はマイナスを記録する事がほとんどで、ひどい日だとマイナス20度という未体験の寒さがより一層学校に行く気をなくさせた。

気付けばも元々ぐうたら生活をしていた彼女と大半の時間をだらだらと過ごしていた。

更に最悪なのが、2人とも大のギャンブル好きで、夏に初めて行ったカジノにはまってしまい、勉強もせずに稼いでもないのに暇さえあればカジノに遊びに行く日が増えていった。

当然ながら次第にお金もなくなっていき、遊びに行くことも次第に減っていき、より一層家でだらだらする日々が続いていった。

年も明け、元々3カ月予定だったの滞在だった彼女との生活も終わりを告げる事になる。

生まれて初めて、しかも異国での同棲生活。沢山喧嘩もしたし、一人になりたいなと思う事も沢山あったけど、いざ別れの時が近づくと、すごく悲しくなった。

 空港での見送りを終え、また一人での生活が始まった。

既に学校に行かなくなってしまっていたので、やる事はバイトとカフェでの地道な勉強くらいだった。

 半年を超えた韓国での生活だが、ここ数カ月に関しては自分でも成長している実感は全くない。ただ韓国で生活をしているだけ。もはや留学でもなんでもない。こんな語学力で将来の仕事に繋がる訳もない。

 お金もなくなってきたので、2月での帰国を決めた。

ギャンブル三昧してしまった事もあり、お金がないはおろか、実家に借金までして生活していた。彼女との将来の為にも地元に帰って仕事を探す必要がある。

 帰国の前にはアルバイト先の人が送別会を開いてくれた。これだけコミュニケーションもままならず、沢山怒られたりもしたけど、クビにせずに続けさせてくれたことには本当に感謝しかない。特によく間に入ってくれた日本人の先輩には本当にお世話になった。

帰国後、実家に帰る前に彼女の住んでいる長崎を訪れ、2泊3日で旅行をした。

福岡空港まで彼女に車で迎えに来てもらい、その後彼女の実家を訪れ、彼女のお母さんとお話しをし、そのまま実家で1泊。その後、大分の温泉旅館へ行き1泊。

 次回はこっちの地元に招待して色々案内をすると約束をし、旅行を終えた。

 (7)転職活動~T期

 いざ実家に帰って来ると、いよいよ現実に戻された気持ちになった。30歳、無職。

このままではヤバイ。漠然とした焦りと1年間社会生活から離れていたことによる社会復帰への不安。

 とりあえず、今回に関しては紹介会社などのエージェントを頼らず、学生の時と同様、インターネットでの職探しを行うことにした。そして仕事が決まるまでの間は、単日の登録制のバイトで繋ぐことにした。

 単日のバイトは非常に居心地が悪かった。ベルトコンベアから流れてくるコンビニのお弁当に延々と筍や人参を乗せ続ける仕事、所定の袋に規定量のペットフードを入れ続ける仕事、他にもDVDやCDの倉庫で回収された商品を所定の場所に仕分けする仕事、ホテルで結婚式の奉仕もやったし、都内の指定された区域にひたすらチラシを配り続ける仕事など、結構色々やったが、どれも共通してすごく孤独で精神的に非常に辛かった。

 合間でホテル業界やウェディング業界を中心に応募し、面接もいくつか行ったが、どれもなかなか採用には至らなかった。今思えば当然だと思う。30歳過ぎて、これと言った資格や経験もなく、そこで働きたいという明確な熱意もない。

 結局、残る業界は飲食しか見つからなかった。

どうせやるからには、前職とは違い、対面での接客、かつ高度な接客を学びたいと思った。

たまたま読んだ転職に関する啓発本に紹介されていた飲食専門の紹介会社を訪れてみることにした。

 そこで紹介されたのが、高級中華料理屋のホールでの仕事だった。

料理長の面接を終え、すぐに採用が決まった。

 勤務地は麻布十番にある本店、本店の他に銀座にも1店舗ある。月曜日が定休日であとは人員不足もあるのか、9時から終電まで、なかなか条件的にもハードな仕事だった。

 実際に働いてみると、ランチ・ディナー共にかなり忙しく、とてもではないが教えてもらう余裕などない。ホールマネージャーの人は非常に厳しい人で、多分接客の基本すら知らず、ワイン1本ロクに開けられない自分に非常に怒りを感じていたのだろうと思う。数人いたホールの従業員も同じ気持ちだったのだろう。距離感が縮まる事もなく、次第に周りの目が冷たくなっていた。ように感じてしまい、勤務中は常に孤独感を感じていた。

 現実は厳しい。。

何の知識も経験もなく、憧れで高度な接客を学びたいという浅はかな考えで、何の予習もせず、何の覚悟もなく入ってしまった。もっと良く考えていれば、こんな事は予想できたはずだった。

 結局火曜日から始めた勤務は金曜日で終わる事となった。

不思議なもので、昔だったらちゃんと教えてくれない周りが悪いとか、与えられた環境が悪かったとか何かと言い訳を思ってしまっていたが、今回に関しては申し訳ない気持ちでいっぱいになった。自分がもっと頑張っていたら、周りの人の負担を減らせたのではないかとか、また辛いから逃げてしまったとか、やるせない気持ちでいっぱいになった。

 何で自分はこんなに弱いんだろう。何で自分はこんなに要領悪いんだろう。

 何で自分は・・・・

 自分は社会に復帰できないのではないかと改めて不安を覚えたが、いつまでも無職でいる訳にはいかない。がしかし、もはや選択肢は飲食しかない。やるしかない。。。

 

今度は少し大きな会社に的をしぼった。絶対に避けたいのは居酒屋と24時間営業の所。

今回受けたのは3社、いずれもカフェやレストランだが24時間営業ではない外食大手企業の面接を受けた。

 飲食は採用までの流れが速く、内定をもらうのにそれ程の時間はかからなかった。

前回の反省を活かし、3社とも事前に店を訪れてみる事にした。そしてそのうち1社で見かけたサイフォンでお客様の目の前でコーヒーを注ぐサービスや店舗のレトロな雰囲気に惹かれ入社を決めた。今思ってみれば、この考えも非常に安易だった。

 結局、入社したのは韓国から帰国してから3カ月後の出来事だった。

 2013年6月、いよいよ店舗での勤務が始まった。店舗は本社のある新橋駅近くにある店舗の配属となった。

まずはそこの店長から基本的な会社のルールやコンセプトなどを非常に簡略的に教わり、基本的には現場対応。やはり飲食はどこに行っても人不足なのか、お客様ありきで教わることになる。そうなると要領の悪い自分は基本的に他の従業員からイライラされる。ベテランバイトの子たちからもイライラしている様子が見て窺えた。

 ただ前と違ったのは、事前にマニュアルをある程度渡されていたこと、あとは以前よりは人員が充足していた事もあったので、メモを取る時間もあり、勤務外に復習だけはかなり行った。そしてその真面目さだけは少なからずは認めてもらえたのか、数日経つと数人の社員・アルバイトとは普通にコミュニケーションを取れる様になった。

ただ、勤務を始めて2週間ほどで衝撃的な事件が起こる。彼女からの別れ話だ。

勤務が始まってから、ロクにコミュニケーションも取っていなかった。彼女から約束事として、ラインで「おはよう」「行ってきます」「ただいま」「おやすみ」だけは必ず伝える様にと言われていたので、真面目な自分は入社後も1日たりとも忘れる事なく送り続けた。

その結果、「なんか気持ちがない」「そんなので、ゆくゆく東京に呼ばれても不安」と言われる事となった。

入社前の面接時には「結婚を考えて、安定した仕事に就こうと決心した」的な事を言ったのに、あっさりとその目標は崩れる事となった。

が、自分に余裕がなかったのか、それとも別の理由があったのかわからないが、それ程落ち込んだりはしなかった。ただ、また結婚が遥か遠くに消えて行った。

より一層、仕事に集中出来る環境になり、要領の悪さは目につくものの、それなりに順調に日々が過ぎて行った。従業員ともそれなりに話が出来る様になり、わからない事を気軽に聞ける人も出来た。勤務が終わって、軽く飲みにいける人たちも出来た。

わずかながら今後の見通しがたってきたかなと思った矢先、新宿の店舗への異動が決まった。入社から2か月も満たないうちの出来事だった。

異動先となった新宿の店舗は、百数店舗ある会社の店の中で一番の売上の店舗だった。

そして入社するにあたって自分が訪れた店舗でもあった。

 実際に働いてみると、一番売上の店もあってとにかく忙しい。そして、そんな状況もあり、何か新しい事はほとんど教わる事は出来なかった。店長からは要領の悪さをことごとく指摘され、時には怒られたり、弄られたりもしたが、気軽に話せる社員やアルバイトも出来て、人間関係はそこまで悪くなかったし、制服がメイド服だったこともあってか、アルバイトの顔面偏差値はすごく高かったので、そこはテンションが上がった。

 しばらくすると、要領の悪さもあってか、忙しくない深夜勤務が中心となった。いくら売上の一番高い店舗とは言え、深夜はさすがに混雑しない。気付けば、日中に勤務する事が多い店長とはほとんど入れ違いで会う事も少なくなっていった。

 深夜勤務とはいえ出勤時間は夕方の5時や6時が多く、一日12時間以上の労働が続いて、やがて帰るのもしんどくなり、近隣のカプセルホテルに泊まる事も増えていった。もう入社して何年も経つが、この時の給料が過去一番多かったのを覚えている。

 一応、月9回の休みだけは確保されていたので、そこが救いだったが、とにかく連勤が続く日は寝て起きたら仕事しての繰り返しだった。日が過ぎるのがすごく早かった。

 新宿で勤務をして半年が過ぎ、2014年の年が明けてしばらくした頃、再び異動の話が持ち上がる。今度は町田に出来る新店の店長としての異動の話だった。

いきなりの店長、責任者としてのスタートが新店、しかも入社してからほぼアルバイトと同じ業務しかしてない自分は不安でいっぱいだったが、それ以上にここの店長は無理だと猛反対していた。が最終的には、家から近いという安易な理由も重なって3月からオープンする町田店の店長に任命されることとなった。

 2月の中旬には現場を離れ、新店の準備に追われることとなった。

まず、良くわからないが社長や幹部たちの前で新店のプレゼンテーションをしなければならず、その準備に追われ、それが終わると今度は新店で扱うメニューのトレーニングも行った。とにかくやったことない事が多すぎて、時間はあっという間に過ぎてった。そしてオープンの日が近づけば近づくほど、不安ばかりが募っていった。

 そして迎えた2014年3月1日、オープン。

初日に関しては、多くの社員のヘルプが来て、自分自身は何をしたか良く覚えていない。ただ、他の社員たちに怒られながら、なんとなくバタバタ動いていた事だけは覚えている。

そこから1か月は本当に忙しかった。まず休んだ記憶がない。また、キッチンの業務や店舗管理するにあたってのマネジメント、事務作業など知らない事が多すぎたが、日々の営業に押されて覚える暇もなく、ただ何となく過ぎていった。

 ただ明確な問題が一つ控えていた。

新店は当然全員新規採用になり、採用に関しては別の社員が行っていたが、学生ばかりのメンバーで4月以降平日の人員が明らかに不足していた。なので、この忙しい合間を縫って、面接・採用活動も行っていった。

このままやっていけるのか不安が尽きなかったが、幸か不幸か4月に消費税が8%になると、客足が急激に弱まり、ようやく営業以外の部分に時間が割ける様になった。

 初めに大きく強化した所は2点

まずは、新しく採用したスタッフの教育強化。そして2つ目が自分自身のキッチン業務の習得だった。2つ目に関してはアルバイトスタッフの方が把握をしていたので、多くの事を教えてもらった。

 始めのうちは試行錯誤の連続で、またアルバイトスタッフの戦力的にも低かった事もあり、営業ではお客様から多くのクレームを頂いた。これが精神的にもかなりのダメージを与えたが、ヘルプに来ていた社員もいなくなり、またアルバイトスタッフとのコミュニケーションも取れてきた事で、少しずつではあるが自分のペースで仕事が出来るようになってきた。

 だが、ここでまた1つ問題が生じる。ホールのフリーター2人とキッチンの主婦の仲が悪くなり、巻き込まれる事となった。

 正直この手の問題はなかなかめんどくさい。お互いに一緒に勤務に入りたくないとか、一緒に入れば、どちらかが泣き出し、それぞれの文句が嫌でも自分の耳に入ってくる。

揉めてるのが3人だったので、構図としては2対1になっており、2の方の勢力が徐々に強くなってくる。

 そしてこの揉め事に拍車をかけたのが、自分自身が1の方と恋愛関係になってしまった事だ。これに関しては自業自得で、もちろん、ばれない様にひっそりとやっていたつもりだったが、何となく雰囲気で察していたのではないかと思う。

 しばらくして、本社に名指しのクレームが入ったり、キッチンの主婦からルーズリーフ4枚に渡る不満を綴った手紙をもらったりと、営業とは関係ない部分で大分心身を擦り減らした。

 唯一の救いは20名以上いたアルバイトスタッフの中であくまでも揉めてたのはこの3人だけだった事だ。この手の話は結構派閥が出来がちだが、大半を占める学生たちは意外と一歩引いた位置で当たり障りのないコミュニケーションを行っていた。

 状況が好転してきたのは、年明けしばらく経ってからの事だった。

先程のスタッフとの恋愛関係もあっという間に終わり、そして、揉めていたホールのフリーターの一人が退職をした事だった。このスタッフは少なからず居心地の悪さを感じていたのかもしれない。名目は正社員の仕事に就きたいとの理由で退職していった。

 これにより2対1の構図が1対1になり、お互いに主張する事も少なくなっていった。

売上が落ち着いてきたこともあり、少しずつだが休みも取れる様になった。そして休みの日には、一緒に働いているお気に入りのアルバイトスタッフを誘い、遊園地に行ったり、ご飯を食べに行ったりした。モラルは著しく欠けていたとは思うが、それなりに充実はしていた。

オープンして2年ほど経つと、元凶となっていたアルバイトも辞め、人間関係に大きな問題もなくなり、また仕事の内容・売上の流れも掴んできて、大きなトラブルもなくなり、日々穏やかに時が過ぎていった。また、ずっと実家から通っていたが、近隣の社宅に空きが出た事もあって、また久しぶりの一人暮らしを始めた。

一人暮らしも始め、仕事も穏やかになってきて、アルバイトも定着してきて、売上も少しずつ上がり、結果も伴う様になってきた。そうなってくると、いつものパターンでいよいよ飽きてくる。そもそも営業自体に問題はなかったが、会社の考え方や人間関係などに関しては大いに不満を持っていた。気付けばもう35になっており、このまま40過ぎてもこの仕事を続けていくのはかなりキツイなと感じていた。

町田に来て、2年くらいが経過した辺りから、定期的に異動の話が出てくるが、噂レベルを超えてはこない。初めの内は結構前向きだったが、3年を超えてきたあたりから、もはやそれすらも億劫になってきた。

そもそも元を辿れば、人見知りの自分にとって、せっかく数年かけて築いてきた人間関係をまた一から始めていくことを考えると、それはそれで憂鬱だった。

どーせ1から始めるなら、別にこの会社でなくてもいいのではないか。と。

そんなことを考えていた2017年年末。クリスマス前にふとした事で彼女が出来た。

予想通り彼女はお店のアルバイトスタッフ。しかも19歳、未成年。

この仕事を続けていくと、アルバイトの大半は大学生で、自分が続ければ続ける程、アルバイトとの歳の差がはなれていく。段々、自分のモラルが失われていく様な気持ちになる。

ただ、歳が離れているおかげで、将来の事を現時点では深く考えなくていいのは、自分にとっては非常にありがたかった。結婚適齢期の彼女だったら、こんな安易に仕事を辞めようなんて選択肢は出せる訳もない。

年が明けて2018年早々、そろそろ退職を申し出ようと思った矢先、リアルな異動の話が舞い込んできた。

場所は武蔵境。場所が全くピンとこなかったが、今回もまた新店の店長としての任命だった。

新店の大変さは十分に理解しているつもりだった。このモチベーションで続けるにはきつ過ぎる。話を頂いた所で、退職を考えている旨を伝えた。

前職では退職の際、引き留めなどほとんどなかったが、今回はとにかく引き留められた。個人的に上司と飲み屋で話し合い。話し合いと言っても、お互いの考えは決まっていて、辞めるなと辞めますの平行線の話が2時間近く続き、意思の弱い自分は結局その勢いに押され、とりあえず新店の店長としての異動を受け入れる事になった。

新店のオープンは3月20日。町田での勤務は3月前半で終了となった。アルバイトスタッフたちが送別会を開いてくれて、皆のメッセージが入ったアルバムももらった。色々大変だったけど、本当にいい人間関係に恵まれたと思うし、これから武蔵境でまたこういう環境で仕事出来たらいいなと思った。

オープンに先立って、前回同様、また偉い人たちの前でのプレゼンテーションが控えていた。前回よりは経験があった分、大きな不安はなかったが、めんどくさい事に代わりはない。町田での勤務をこなしながら、1週間ほど準備をして、滞りなくプレゼンが終わると、ここからは間近に迫るオープンの準備作業が始まる。

今回、もう一つ大変だったのは場所が変わった事で引っ越しを決めた事だった。やる事が多すぎて、ゆっくり物件を探す暇もなく、彼女にも物件を探してもらいながら、あまり深い事も考えないまま、不動産屋さんの勧められた物件に何となく決めてしまった。

オープン1週間前に引っ越しを完了し、そこからはひたすら店舗に入り、アルバイト教育や店の導線の確認や、必要な食器や器具の準備。

町田の時と一番違っていたのは、オープン1週間前の時点で、必要な人員数が充足していなかった。本部からの指示で多い時は2時間で12名の面接を行った。もちろん1人1人行えるはずもなく、一度に3名の面接を行う時もあった。さすがに集団面接は初めての体験だった。

多くの社員の力を借りながら、何とかオープンまでの準備は整った。

そして2018年3月20日、無事にオープンを迎えることとなった。

町田の時もそうだが、オープン日は会社関係者が多すぎて、なにがなんだかよくわからない。知らない人に挨拶したり、横には上司が張りついていたりいたりで、とにかく気が休まらない。ちょこちょこ怒られたりもしながら、何とか営業をこなしていったが、自分がこれだけ居心地の悪さを感じていたという事は、働いていたアルバイトスタッフは本当にきつい仕事だったと思う。こんだけ客でもない知らないおじさんがウロウロしていたら、笑顔の接客なんて出来る訳もなかった。

この状態は1週間ほど続くのだが、3日目の営業でとにかく忙しくて周りを気遣う余裕がなくなってしまった所で上司に強く叱責を受けた。しかし、なんでこんなに頑張っていて、しかもこの上司は人が忙しなく働いている中でその辺をウロウロしているだけなのに、こんな事を言われなければいけないのか、非常に腹が立って、大人げなく適当な相槌を打っていたら、裏に呼び出され、人格否定を含め、思いっきり罵られた。

もう疲れもピークだったので、言われた事に対して反論する元気もない。ただ頭の中にあるのは、何で自分がこんなに言われなければいけないのだろうという思いだけ。返事もしなくなった事でより一層腹の立った上司は、その後も数時間に渡り、嫌味なのか説教なのかただの悪口なのかわからない小言を言い続け、それがより一層自分の精神を擦り減らす事になった。

自分の状態を見て判断したのか、翌日休むように命じられた。本来、新店の店長がオープン4日目で休むのは異例の事らしい。

営業が終わり、家に着くと涙が止まらなくなった。悔しさなのか、悲しさなのかもう良くわからない。これからも仕事を続けていけるのか、いっそこのまま消えてしまおうか、また自分の弱い考えがちらほらと顔を出してきた。

結局、その日はなかなか寝付けず、翌日も完全にネガティブモードで、未成年の彼女は心配して駆けつけてきてくれ、良い歳こいたおっさんが、はるか年下の彼女に慰めてもらう。

非常に嬉しかったが、今思うと本当にみっともないし、しょーもない。何よりも恥ずかしい。なにやってるんだろうと思う。が、35年培ってきたこのメンタルの弱さはきっともう変えられないので、上手い事付き合っていくしかないのだろう。

翌日からまた勤務が始まった。

納得していない部分もあったが、とりあえず上司に謝罪をした。上司もこれ以上強くは責めず、労いの言葉をくれたが、お互いに気持ちが入っていない事は明らかだった。

町田の時と同様、オープンして1カ月は非常に忙しかったが、ゴールデンウィークを過ぎた辺りからは徐々に落ち着いていき、他の社員の力を借りずに自力で営業が出来る様になった。日が経過すればするほど、アルバイトの戦力は上がり、営業の流れも掴めてきた。

とは言え、オープンして3カ月はほとんど休みなく働いていた様に思う。

ちょうどこの頃から世間では「働き方改革」が騒がれ始め、自社でも公休日数や労働時間などチェックされる様になってきた。秋口くらいからは少しずつ休みが取れる様になり、休みの度に彼女と近場に旅行する様になった。

武蔵境の良いところなのか、悪いところなのかわからないが、時期的な繁忙期というものが全くない。以前いた町田で言えば、やはり年末年始が圧倒的に忙しくなるのだが、この店ではそういったものがないので、長期的な連続勤務もなく、穏やかな毎日を過ごしていた。

そして、武蔵境にきて1年が経過してくると、信頼できるアルバイトも多くなってきて、任せられる時間も増え、労働時間も徐々に減っていった。残業手当がつくこともなくなり、それでいて自由な時間が増えてきて、貯金が全くできなくなった。

更には、ここ1年くらいで急激な体力の衰えを感じる事が増えてきた。以前は1日休憩なしでもなんとかやれていたのだが、徐々に休憩を欲する様になった。

体力もなくなり、唯一の取り柄だった、思い立ったら即行動、やりたいことはとにかくやってみるといったチャレンジ精神の様な物が段々と薄れ、やりたいことも思いつかず、日々無気力な毎日を過ごす様になった。周りの友人も結婚したり、子供ができたりして、飲みに行く事もなくなってきたことで、無気力により一層拍車がかかっていった。

これといった大きな問題もないが、日々変わりのない毎日、それでいて歳をどんどんとっていき、活動力の様なものだけが日々衰えていく。

このまま何となく仕事を続けて、最低限の生活には困らないが、代わり映えのない毎日を過ごしていくのか。。。自由な時間が増える中、やりたいことも見つからないので、ただ漠然と自問自答を続けていた。

2019年年末、改めて上司に退職の旨を申し出る事にした。

漠然とした理由だとまた前回と同じ流れになりそうだったので、今回は再び韓国に行きたいと理由付けをした。知人が韓国にいて仕事は紹介してもらえるので、もう一度韓国に行きたいと。そして会社の期末になる2020年4月末で終わりにしたいと申し出た。

理由が明確になったこと、また今回申し出たのが2回目ということもあって、上司もさすがに止めるのは不可能だと思ってくれた様だった。退職日は現時点ではまだ未定だが、退職する事に関してはようやく了承してもらえた。

退職が明確になったことは良かったのだが、現時点でまだ次にやりたいことが見つかっていない。過去2回の退職とは圧倒的に違う点。年齢。37歳で一体今から何ができるのだろう。一体自分は何がしたいのだろう。

2020年早々、話し合いの末、退職は5月末になった。

前職同様、終わりが見えると頑張ろうという気持ちになる。

最後はそれなりに惜しまれて辞めたいと思うからだ。

アルバイトの教育も滞りなく行って、後任の店長に負担を与えないように出来る事は全てやり切ろうと思っていた。

しかし、ここで予想もしなかった事態が起こる。

春先、コロナウイルスの問題がどんどんと大きくなり、各所で営業停止や時短営業となった。

自店も営業時間短縮となり、客数が通常の10分の1くらいになった。イートインだけではどうにもならず、日中はカレーやパスタのテイクアウトを行ったりしたが、大した成果も得られなかった。

何よりこの状況がいつまで続くかが不透明で、新規のアルバイト採用はおろか、既存のアルバイトスタッフが働く機会も最低限に限られ、教育は滞った。

何よりショックだったのは、当時大学4年生だった彼女の卒業旅行も兼ねて、久々の韓国旅行を計画していたのだが、コロナが流行し始めたことで、彼女の両親から直前でNGが出てしまい、泣く泣く島根・鳥取旅行に変更になったことだ。

コロナの流行で全ての計算が狂った。結局、最後の数カ月は営業してもしなくても大して変わらないくらいの売上で、毎月行われていた店長会も中止になっていたことで、他店舗の店長と顔を合わせないまま、退職日を迎えることになった。

(8)転職期~S期

退職後に早速就職活動を始めるが、こんなご時世もあって、求人数は想定よりも少なくなっていた。やりたい事も明確に決まっていなかったが、この春社会人を迎えた彼女とそろそろ将来のことを考えなければいけないと思うと、安易な選択は禁物かなと考えていた。

とりあえず、願わくば飲食は避けたかったが、年齢とこれまでの職歴を考えると、飲食しかないのかなとも思っていた。

ただ、飲食だと休みが確保できないイメージがあり、これから更に歳を重ねていく中で体力的に厳しいので、まずは転職サイト数社に登録し、自分の経験や年齢でも条件が満たされている求人を片っ端から探した。

当時、求人としてどのサイトでも最初の方に挙がっていたのは、アマゾンでの倉庫の仕分けや管理の求人だった。

コロナでおうち時間を過ごす人が多くなっていて、アマゾンの需要はさらに拡大をしており、倉庫を増やしていた。それに伴い、そこで働ける人を多数募集していた。

給料も悪くなく、一部夜勤はあるものの、休みも一定数確実にあるようだったので、興味本位で受けてみることにした。

面接はWEB面接で行われたのだが、久々の強烈な圧迫面接だった。質問に答えると全て否定的な意見が返ってくる。WEBだったが、何度も言葉に詰まり、そして沢山の冷や汗をかき、そして心は萎えた。

その後、数日経ってまさかの採用連絡がくるが、面接の時点で心は折れており、全くやっていける自信もなく迷うことなく辞退をした。

それから色々な業種を受けてみた。最悪の事態を十分考えられたので、飲食もいくつか受けた。しかし、いいかなと思ったところの面接は落ち、逆に話を聞いてピンときてない所からの採用連絡もあったりした。まぁ自分の職歴や年齢を考えれば妥当だったと思う。

ある日、登録していたサイトの求人の中に、書店での店長候補の求人が挙がっていた。

給料は安いが、休みはしっかり取れ、かつこれまでのマネジメント経験は活かせると思った。

WEBでの面接を終え、数日経つと本社での面接に案内された。

本社は愛知県豊橋市。あまりしっかりと会社概要を確認していなかったが、この会社は主に愛知県を中心に展開しており、40店近くある店舗のうち、関東にあるのは10店舗程度だった。交通費負担での案内だったので、少しテンションが上がった。

そのまま、帰りは静岡辺り旅行して帰ろうと思った。

当日、面接の日には一応本社ビル下にある書店の下でビジネス本を買い、店内をある程度見まわしてから面接に向かった。

自分がこれまで勤めていた中で言うと、圧倒的に歴史を感じた。というのは包んだ言い方で、圧倒的に古臭く建物や設備も老朽化していた。

実家のエレベーターよりも古く、圧迫感もあり、少し怖かった。

 面接は本社内の応接室のような所で行われ、大きな机から少し距離を置いて、椅子が1脚だけ置いてある。

向かいには社長と専務と名乗る人が机を挟んで座っていた。

 面接は圧迫的な要素は全くなく、終始穏やかには進んでいった。ただ別に盛り上がったりした訳ではなく、比較的淡々と進んでいった。

これまで多くの面接を経験してきたが、おそらくほぼ採用が決まっていたのではないかとすら感じるほど、これまでの実績や性格といった質問よりも、入社後のキャリアステップや福利厚生など、より具体的な話が多かった。

 面接自体は30分ほどで終了。10分ほど受付のような所で待たされた後、即座に採用の話があった。

予想は出来ていたが、こんなにも早く通知が出るとは思わなかった。後日、入社後の条件面の提示をして、双方で合意があれば入社という流れになった。

 この時点で、独立を前提とした居酒屋の店長やPC教室の教室長など、選考が進んでいるものもあったが、その中では一番悪くないと思った。

ここで2か月程度に及ぶ就職活動は終了となった。

 入社は約1カ月後9月からでお願いをした。この1カ月で旅行をしようと思っていたからだ。

いつもであれば真っ先に海外を選択する所だが、この時海外の選択肢はなく、止む無く国内を選択した。

期間としては3週間程度。まずは北に行くか、西に行くか考える。

まず第一に久しぶりに飛行機に乗りたかった。そして行った事のない所に行きたかった。

ここで長崎にいる前の彼女の事を思い出す。久しぶりに連絡を取り、旅行でそっちの方に行くが、会う事が出来るか確認をしてみると、お茶くらいならという事だったので、スタートは長崎から始めようと思った。

 まずは福岡まで飛行機で行く。この時、時期はお盆に迫ろうとしていたが、世論では自粛ムードが漂っていて、その影響もあって、空港には人が数えるほどしかいなかった。とりあえず福岡に行き、大宰府や福岡ドームを巡った後、長崎まで電車で向かった。

長崎は初めてだが、意外と広かった。どちらかと言うと小さい県のイメージがあったのだが、長崎市内から、彼女が住んでいる佐世保までも2時間近くかかる。せっかく長崎に行くので、市内も観光した。世界3大夜景を見に行ったりもした。

たまたま行った日が、長崎では有名な精霊流しの日で、中心地は故人の遺影を載せた神輿や竜をモチーフとしたものを持ちながら、大勢の人が歩いていた。周辺では激しく爆竹が鳴っている。

 そんな観光を経て、翌日佐世保に向かった。会うまでに時間があったので、遊覧船に乗り、九十九島の景色を堪能した。

そして、夕方くらいから彼女と待ち合わせ。

 彼女と会うのは約7年ぶりだったが、ほとんど変わっていなかった。

カフェでお茶をしながら色々な話をした。今の仕事の話や恋愛の話などしたが、やはり会話の大半を占めたのは韓国にいた時の話だった。

すごく懐かしい気持ちにもなったし、何よりほとんど連絡を取っていなかった彼女が会ってくれた事が嬉しかった。

 時間はあっという間に過ぎていく。彼女から6年後くらいにお互い相手がいなかったら結婚しようと冗談っぽく言われたが、これ系の話はこれまでの人生で記憶に残っている範囲でも3回は言われていたが、その年月が過ぎても結婚した事は一度もなかった為、社交辞令だとは思うものの、少なくとも久しぶりに会って印象が悪くならなかった事だけでも確認出来て良かったと思う。

 

 その後、長崎から福岡を経由して、山口・広島・岡山・兵庫・京都・滋賀・福井・石川と辿って3週間にも渡る旅行は終了した。

この時は本当にどこの観光地や名所に行っても本当にガラガラで、ホテルの宿泊費も普段よりもかなり格安になっていた為、旅行自体は本当に快適だった。今後の人生の中でも、清水寺にあんなに人がいないのを見る事は絶対にないと思った。

 旅行が終わると、入社まで約1週間となっており、またいよいよ現実の世界に戻ることになった。

始めの配属先は千葉の市原に決まっていて、翌日が休みの日以外は全てホテルでの生活となった。ここで1カ月の研修を経て、所沢勤務になる所までは決まっていた。

 これだけ転職を繰り返すと、新しい環境に飛び込むことに少なからずは慣れてはいたが、それでもやはり最初は緊張する。面接で仕事内容はわかっても、お店の環境や人間関係は知る事が出来ないからだ。

 

 いざ迎えた勤務初日。緊張した面持ちながらも、元気よく挨拶して入った。

物静かな感じの店長が担当となって指導してくれる様だったが、実際に勤務が始まると、教えてくれるのはほとんど若手社員とベテランのパートさんとなった。

 前職のカフェと比較すると、忙しすぎて教育に時間が割けず、お客様ありきで教わるより慣れろといったスパルタ的要素では全くなく、大半の時間、誰かと一緒に作業だったので、質問もしやすい環境で、思ったより馴染むのには時間がかからなかった。

ただ、自分が思い描いていた書店よりも圧倒的に忙しかった。

 朝には大量の書籍や雑誌が入荷し、その後営業時間になると、多くのお客様が来店され、曜日や時間帯によってはレジに長蛇の列が出来る。

当時、自粛ムードでおうち時間といったワードが広まっていた。その中で、鬼滅の刃が全盛期となっていて、コミックを中心とした関連商品が莫大な人気となっていて、コミック最新刊発売日やくじでグッズをもらえる一番くじ発売の日には店の外50メートル以上の大行列が出来ていたりで書店業界の売上が絶好調だった。

 色々と大変な事もあったが、世話好きなパートのおばさんたちにも可愛がってもらって、順調な1カ月を送る事が出来た。

また、飲食と比較すると圧倒的に楽だなと思った。

 その1つとして、まずクレームの量や質が全然違う。飲食だと混雑時は常に煽られ、注文を漏らしたり、商品を間違えたり、最悪の場合お客様にかけてしまったりすると、もうそこだけに多くの時間を割かなければいけないが、書店ではまず煽られることはほとんどないし、何かお客様に危害を与えるような事はまずないから、精神的負担は大分違っていた。

 もう一つは書店だからというより、会社の風土的なものなのか、作業を急いたり、高圧的な対応をする人が皆無だった。

良くも悪くも内向的な人が多く、こちらから質問をすればリアクションはあるものの、何も言わなければ割とそのまま放置されるケースも多かった。

1カ月の研修を経て、9月から所沢勤務となった。

このお店はこの年の8月にオープンしたばかりの新店で駅直結ということもあり、会社の中でも1,2位を争う売上の店だった。

 社員が自分以外に3人おり、店長と中堅社員と若手の3名。

 スタッフは自分とほぼ同じタイミングで入ってきた訳だが、お店の事は当然自分より知っているので、とにかく困ったら沢山質問した。市原の時もそうだったが、社員は付きっ切りで見てくれる訳ではないので、細かな質問はスタッフさんの方がしやすかった。

 市原の時と比べると、皆が同じタイミングで入っているのもあって、忙しい中でも割と和気あいあいとしていた。ただし、おそらくこのスタッフたちも想定していたよりも遥かに忙しかったこともあり、状況によっては殺伐とした空気が流れていた。

 店長は市原の時と比べると、社員に対してもスタッフに対しても、対話を重視するタイプの人だった為、初期からかなりコミュニケーションを取り、色々な事を教わった。ただし、若干感情の起伏が激しいところがあり、一部スタッフや若手社員がミスをすると、結構な勢いで叱責していた。

 初めのうちはほとんどスタッフとやっている事が一緒だった為、割と同じ目線でスタッフも話しかけてくれた為、人間関係に悩むことはほぼなく、順調に日々が過ぎていった。

 今回初めて気付いた事が一つあった。

これまでの会社では、要領が悪く、物を覚えるのに他の人よりも時間がかかったりして、大体の教えてくれる人をイライラさせていたのだが、今回はそういった事はほとんど感じられなかった。自分の経験値が増えてきているからと前向きに捉えたいところではあるが、

おそらく手先の器用さを求められるような仕事がほぼ皆無な事と、仕事の難易度がこれまでの仕事と比べると圧倒的に低い事が挙げられると思う。

 とは言え所沢は本当に忙しかった。

 

平日は朝来ると莫大な荷物が置かれていて、その品出しから始まり、営業が始まると、日中は多くの時間でレジでは多くの列が出来ていた。初めは4台だったレジは、その後の2年の間に6台まで増設されるほど、会社の想定をはるかに超える集客を誇っていた。

最も忘れられないのは、この年の12月にあった鬼滅の刃の最終巻の発売日。

平日にも関わらず、オープンの9時前から長蛇の列が出来ていた。しかも年配の方ばかりで、オープン後もその最終巻を求めて、列は絶えることなく並び続けた。明確な数は覚えていないが、1500冊以上はあった最新刊が夕方には売切れとなっていた。

新店あるあるだが、スタッフも含めた働いているスタッフの大半が、事前にどの程度混雑するのか、荷物はどの程度届くのか、データがない為に日々想定外の連続だった。

しかし、先にも記した通りに仕事内容は単純で、クレームの内容も重いものは多くなく、

更には専属の社員が4人いる為、休日出勤は皆無で、残業もほぼ存在しなかった為、精神面では過去一番に楽だった。ただし、残業がほぼないというのもあるが、給料は過去一番に低かった。

当然、今まで仕事をしていた中では、圧倒的に自由な時間が増えた。こうなると彼女と過ごす時間が増えるような気もするが、彼女はこの年の春から社会人になっており、これまでより会う頻度は少なくなっていた。

給料は減り、自由な時間は増える。更にはコロナによる自粛ムードの高まりもあって、遊んでくれる友人は更に減り、辛くもない楽しくもない毎日が続く。

連休が出来れば、今までに行った事のない国内の場所に一人旅に出る。たまに彼女と休みが合えば、彼女とどこかに遊びに行く。

会社の人とはそれなりに関係は築けていたが、勤務後にご飯を食べたり、ましてや休みの日に遊びに行ったりする事はなかったので、自分の交際範囲はこれまでの人生の中で最も閉鎖的となった。

そしてプライベートで最も距離の近かった彼女との関係も徐々に変化が生まれ始めていた。

彼女は社会人になり、初めの頃はオンラインでの研修などが主だったが、秋くらいから本格的に仕事が始まると、色々な人間関係に悩まされ、順調に病んでいった。

やがて、会っても所々で仕事の電話が入ったり、話の中心が仕事での悩みになったりと、2人で会ってもどこか浮かない様子で会う機会が増えていった。

おそらく彼女は仕事での悩みに共感して受け止めて欲しかったのだと思うが、自分は

人間関係で納得いかない事があるなら、本部なり上長なりに相談するしかないと言い続けた。更にはそれで解決しないなら、そんな仕事は辞めるべきだと言った。

 このやり取りは彼女が仕事で悩み始めてから数カ月続いたが、やがて話しても何の解決にもならないと悟ったのか、相談される事もなくなっていった。

 改めて振り返って考えてみて、16歳離れていることを加味すれば、もっと広い心で受け止めても良かったと思うし、受け止めなければいけなかったのかとも思う。自分が1年目の時にも同じような悩みを抱えていたし、あの失踪までした自分の1年目と比較すれば、ちゃんと困難に立ち向かっている彼女の方がよっぽど頑張っていたから、辞める方向に持っていくよりも、どうやったら乗り越えられるかの方に話を進めるのもアリだったのかなと思う。

 そんな状態がおそらく半年近くは続いたのち、自分が書店に入社して1年弱が経過した6月前半。彼女から直接別れ話を切り出された。

 理由は仙台で新しい支店が出来るのに伴い、そこの立ち上げメンバーに選ばれ、遠距離になるのは厳しいという理由だった。

 彼女との関係が希薄になっていたのは事実だが、まさか別れ話を切り出されるとは全く予想していなかった。というのも、これまでの3年半近くを振り返ってみても、圧倒的に彼女の方が気持ちが強いと思っていたからだ。彼女が自分と別れるなんて言う訳がない。彼女は自分の事が大好きだ。と根拠のない自信がこの3年半ずっと続いていた。

 だから、切り出された時はどうせ一時的なものだと思ったので、年上面して驚かず、冷静に受け止めているフリをした。更には冗談っぽく、今後自分ほどいい人現れないよみたいな事も言った。彼女は軽く笑いながらそうだねと言っていたが、今思えば、自分の方がはるかに子供だったなと思う。

 この別れ話があって以降も、どうせしばらくすれば彼女からまた連絡が来るだろうと軽く考えていた。喧嘩の延長線上にあるものだと思っていたから、あまり落ち込んだり、深く考えたりもしなかったし、こちらから連絡する事もなかった。何よりも家には今もなお彼女の決して少なくない荷物が置きっぱなしになっていたし、部屋の合鍵も返してもらっていなかった。だから少なくとも荷物の回収と鍵の返却は確実にすると思っていた。

 もしかしたら別れを切り出した手前、会うのが気まずくなっているから、自分のいない日に来るかもしれないと思い、手紙を書いて机の上に置いておいた。これまでもあまり書いた事もないし、言葉にして伝えたこともなかった自分の気持ちを素直に綴った手紙。読んでもらえばまた何かが変わるかもしれない。そう思っていた。

 しかし、この手紙が読まれることはなかった。

 1カ月が経過しても、彼女が荷物を取りに来る気配はない。そしてさすがに1カ月が経つと、もう彼女はここに来る気はないんだなと認識させられた。

 休みの日に彼女の荷物の整理をした。改めて整理をすると、彼女の荷物の多さに付き合っていた3年半の長さを強く感じさせられた。

 二人の休みが合うと、色々な所に出かけていた。彼女はショッピングがあまり好きではなかったが、アウトレットやショッピングモールのような所に出掛けては、彼女に似合うと感じたものを買ってあげていた。そういう思い出の詰まった衣服がまだいくつも残っていた。取りに来ないということは、それは全て自己満足で実は彼女は気に入っていなかったのかもしれない。

 彼女の荷物を家にあった一番大きなバッグに詰めたが、旅行の帰りのスーツケースみたいにパンパンになり、代わりに家のクローゼットが一気にスッキリした。

 こちらから連絡を取る気にならなかったので、とりあえずしばらく置いておくことにした。

 彼女と別れてからも仕事の方は特に大きな変化もなく、順調に進んでいた。周りとの関係性も良好で、時には他愛もない話をしながら、忙しい日々を過ごしていた。

 ある日、彼女と別れたことを知ったおばちゃんアルバイトが気を利かせてくれたのか、紹介したい女の子がいると話を持ち掛けてきた。

 そのおばちゃんが良かれと思ってやってくれているのか、面白がってやってくれたのかはわからないが、こちらとしては本当にありがた迷惑だった。なぜならこのパターンで会う事になれば、自分が持ち合わせている人見知りスイッチが最大限発揮されるシチュエーションだからだ。そうなった時の空気など淀み過ぎていて、結末は目に見えている。

 しかし、おばちゃんの強い圧力に断りきることが出来ず、ラインでのやりとりを経て、直接会うことになった。

 相手は30代の方だったが、そんなに口数の多いタイプではなかった為、とにかく色々な質問をしながら、会話を続けていった。どうしてもトピックが見出せず、所々で無言の状況が続くと、その空気感に堪えられなかったのか、氷だけが入ったグラスを吸ったり、シャツの裾を上げては下げてを繰り返していた。

 それでも何とか2時間程度が経過し、そろそろ解散かなというところで、その子から「面接みたいですね」と言われた。自分では精一杯やっていたつもりだったが、無言の空気を嫌うあまりにどうやら形式的な質問ばかりをぶつけていたようだ。

 こっちに取ってもとても苦しい時間だったが、向こうにとっても本当に地獄の時間だったと思う。もちろんその後も会おうという話にはならなかったが、歳を重ねても全く成長していない自分に強く気付くこととなった。

 

 彼女がいなくなって数カ月。段々と一人の生活にも慣れてきたものの、何かを記すほどのエピソードがめっきりと減っていった。休みの日はダラダラするか、そんな暇を持て余している自分がイヤで、彼女がいた頃に貰い始めた御朱印帳片手に神社仏閣を巡ったりした。

 2022年に入ったころ、学生アルバイトの子の一人からしきりに誘われるようになった。彼女は大学2年生。多分二十歳。それほど勤務で重なっていた訳でもなかったし、特別沢山話をした訳でもなかったので、こんなおじさんの何がいいのかさっぱりわからなかったが、とにかくよく誘われた。やがて連絡先を交換するようになり、頻繁にラインがくるようになり、ご飯に行ったりするようになった。彼女に好意を持っていた訳ではなかったが、40歳直前にして、他人から必要としてもらえている事は素直に嬉しかった。だから誘われたら基本断らなかった。

 3月に入ったある日、その彼女から映画の誘いを受けOKしたのだが、その直後に異動の話が出て、初めて誘いを断ることになった。

 このタイミングで異動の話が出るのは想定内だった。もしかしたら本社のある愛知方面もあり得るかと思っていたが、異動先は千葉県だった。

 これまで店長補佐として所沢で約1年半勤務していたが、4月から松戸と市原にある店舗の2店舗兼任の店長としての辞令だった。更には4月から新入社員も松戸の配属となり、教育も任されることとなった。異動は約3週間後。

辞令が出てから、一気に忙しくなった。前の彼女との思い出の詰まった家も離れ、前任の店長が住んでいた松戸の社宅に引っ越すことになり、仕事では少なからずの引継ぎと、休みの日は引っ越しの準備に追われた。

久しぶりに前の彼女にラインを入れた。家の中にはカバンいっぱいの彼女の荷物がまだ残されていたからだ。返信はあったものの荷物は送って欲しいとのことだったが、荷物の送り先は異動したはずの仙台ではなく、別の家、しかも○〇様宅という宛書になっていた。

やはり異動するからという理由は嘘だったようだ。しかも、もしかしたら別れる時点で新しいパートナーがいたのかもしれない。当時の自分の揺るぎない自信は改めてなんだったのか。。。

 そうしているうちにとうとう迎えた所沢での最終勤務日。さすがに寂しい気持ちになったが、一緒に働いていた人たちから沢山の言葉とプレゼントを貰い、本当に良い環境だったとしみじみと思った。

 

 3月後半から千葉での勤務が始まった。社宅は今まで住んできた中で、韓国の極狭ルームの次に狭く快適とは言えないものだったが、社宅となったことで家賃はタダとなった。

本当に簡単な引継ぎが終わり、4月には新入社員も入ってきた。

 担当する店舗において、松戸には2年目の社員と新入社員がおり、市原には常駐している社員はおらず、パートアルバイトのスタッフさんだけで運営をしていた。

 市原の店舗は売上がそれほど高くないので、メインとなるのは松戸となる。基本松戸が週3、市原が週2となった。新入社員にずっとついてあげる事は物理的に無理なので、自分がいない日は2年目の社員に任せる事となった。

 これまでの店長補佐の時と比べて、仕事の内容は大きく変化した。更には店舗兼任だったので、なかなか会えないスタッフがいたり、通常業務に大きく参加するわけではないから、スタッフと関係性を築くのがすごく難しかった。

 ただ良かったなと思うのは、松戸の2年目社員が非常に優秀で仕事の多くを安心して任せられたこと、あとは前回の所沢の売上規模が、担当している2店舗よりはるかに高かったことでお店自体が忙しいと感じなかったこと、もう一つは2店舗ともに大きな人員不足を抱えてはいなかったことが挙げられる。

 この時点で社歴1年半。大半のスタッフの方が日常業務に関しては知っていることも多かったので、今回もわからないことは、とにかく恥じらいなくスタッフに聞いたし、出来る限り通常業務にも参加した。

 そうやって悪戦苦闘していた最中、人知れず40歳を迎えることになる。

店舗に来て1カ月程度。当然自分の誕生日を知っている人間などおらず、家族とごく一部の友人からのラインがあったこと以外、普通の1日と何も変わらない1日だった。が、無性に寂しい気持ちになったことは強く覚えている。

 若い時には、自分が40歳の頃には、もう結婚して子供も生まれて、友達と子どもの話とかして、新たな価値観や喜びが生まれて、誰かの為に生きる毎日を送っているものだと思っていた。

 思い描いていた自分とのギャップ。今も成長しない価値観。目的なく生きる事への虚無感。何かをしようとする純粋なエネルギーだけが年々衰えていき、今後の漠然とした不安だけがどんどんと増していく。

 ネガティブな思いは尽きなかったが、新しい仕事が始まったことはある意味プラスだった。日々やるべきことは山積していて、そういった思いを感じさせる時間を少なくさせてくれている。

 この頃には書店バブルは既にはじけていて、更には物価高に伴う光熱費や人件費の高騰も重なり、会社は厳しい状況にさらされていた。

 前年の人件費から予算を大きく削られ、オペレーションの進め方も全店一律で行えるようにマニュアルの整備が進められていた。

 そうなってくると店長の独自性やアイデアなどは全く必要とされず、本部からの意向を忠実に理解し、それをスタッフに落とし込めさえすれば、それ以上多くは求められなかった。

 業界の違いなのか、時代の変化なのか、求められているハードルが高くないので、夏を迎えるころには山積していたやるべきことも日常業務で解決できるようになり、残業したり、勤務外で頭を悩ませたりすることもほとんどなくなり、また物思いにふける時間が多くなっていった。

 仕事に関しては、環境にも支えられ眠れなくなるほどのストレスは皆無だったので、精神面は安定していたが、段々と身体の不調が出始めてくる。日々眠りが浅く、熟睡が出来ず、疲れが取れない。あと日常的に目がチカチカしたり、焦点が合わなくなったりして、長時間のデスクワークがしんどくなってきている。

 

色恋沙汰もなく、変化のない日常は本当にあっという間に過ぎていく。気が付けば松戸に住み始めて1年近く経過しようとしていた。

変わり映えのない毎日を変えようと連休を取って、1人で韓国に旅行をした。海外に行くのはほぼ10年ぶりだった。

ちょうどコロナ自粛による海外旅行が解禁されたタイミングだったが、事前に提出しなければいけない書類や入国・出国の際も細かいチェックが求められた。機内やホテルはおそらく卒業旅行と思われる女子大生のグループや韓流好きと思われる親子ばかりだった。

行ったのが2月だったこともあり、とにかく寒かったが、主に昔行っていた所を中心に色々な場所を巡った。昔通っていた語学学校や大学、良く勉強するのに使っていたカフェ、更には初めて彼女と同棲したアパート、一緒に買い物したスーパーなどを歩いて周り思い出にふけった。アルバイトしていた居酒屋にも行ってみたが、違うお店に変わっていた。

留学してから10年が経過していた事もあり、所々変化はしていたものの、昔を振り返るという意味では物思いにふけれるだけの材料は揃っていた。結果として2泊3日の旅行の中で、新しいところを巡る時間より、思い出の場所を巡る時間の方が遥かに多くなってしまったが、非常に有意義な旅行となった。

旅行が終わると、また変化のない日常に戻っていく。誤解のないように言っておくと、仕事を疎かにしている訳ではなく、定められた時間の中で出来うる限りの事はしているとは思うが、とにかく仕事内容に大きな変化は見られなかった。

 4月になるとこのタイミングで3年目となった社員が異動となり、新たに新入社員が入ってきた。アルバイトも卒業者が数名いた為、しばらくは教育が最重要項目となった。

 とは言え、ある程度教育が進んでいくと教育に割く時間は徐々に少なくなっていき、また日々変わらない日常業務へ戻っていく。時期によって混雑具合や課せられる仕事のボリューム感には多少の違いがあるものの、予想外のことはほぼなく、そういった日常は本当にあっという間に過ぎ去っていく。

 

気が付けば2024年を迎えようとしている頃、その日は突然やってきた。

 

 

        

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